カテゴリ:山口素堂資料室
連歌師 柴屋宗長 しばやそうちょう
連歌師。駿河国島田の鍛冶職人の子。 今川義忠に仕え、十八歳で剃髪し、後に大徳与一休の禅門に入った。 晩年は今川氏親のために様々な政治的な画策を行った。 宗祗を師とし、『璧草』、『宗長百番連歌合』等の句集、 『連歌作例』『雨夜の記』等の俳論書、 他に日記紀行『宗長子記』『宇津山の記』がある。 禅はもとより、古典、連歌、俳諧全般につうじた中世末期の代表的連歌師であった。 一五三二年(享禄五年)没。八十五歳。
〔註〕素堂60才 元禄十四年(1701)『宗長庵記』
連歌の達人蕾庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元公につかへ、故ありてみづから髪を薙出、華洛にのぼり、種玉庵宗祇法師にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として猶歌仙に人丸赤人有がごとし。性行脚を好み、江山を友とし岩上樹下を家となして風月に宿る事いまさらいふに及ばず。記詞花言葉・新撰筑波集・北国の道之記及び宇津の山の記にのこれり。然共宗祇居士、牲丹花翁のごとく世にいひ傳へたる事多からず。同国の東北にあたつて天柱山のふもと柴屋といふ所に両居士は文亀年中相州箱根山にて終たまふよし、宗長居士は享禄元年弥生初の六日と計傳へきて桂城の地きはめてさだかならず。此郷にて出生の事はうたがふ所なし。よつて郷人風雅の旅人をやどさしめむとおもひたつこと久し。予たまたま此郷にやどりて聊きく所をしるしさりぬ。他日よくしれらん人、記つきたまへ、 元禄辛巳(十四年)二月五日 武陽散人素堂書
元禄十四年(1701) 『島田宗長庵記』
仲秋十二、島田の騨にいたる。日はまだ高けれ ど名にしほふ大井川の水にさへられ、はからざるに此所に旅牒す。つたへ聞、宗長居士は此郷より出て名をふるふ。五条義助といへる鍛士の祖族たりとぞ。母なん藤原氏なりけり。偶如舟老人かへらぬ昔を慕ひて一草庵をしつらふ。名づけて長休と號し、故墳となして往来の騒客をとどむ。しかはあれど、牽強するにはあらず。其風姿をしのびよれるものは、親のこときし子の如くす。 ふらばふれ牛は牛づれ秋のくれ 舟翁、何がしの両三子にかの記を乞求めて一軸とし、愛敬してしばらくも身をはなたず。予ひそかにあるじをたばかりて見るに、流石にほろき難波江のよしともあしともいふべき事ならぬ。只祇長の風に徳ある事を感じて涙を落すのみ。 そよ更にむかしえをうゑて忍ぶ草 朝霧や嚥朝寝にて柴の庵
そよ更にむかしえを植て忍ぶ草 素堂 石蕗に色つく庵の巻筆 如舟 来年と捨ておく月の晴でて 乙州
ささいからお宿申や燕子花 如舟 衣更せす夜着も借るまし 素堂
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 14時27分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[山口素堂資料室] カテゴリの最新記事
|
|