カテゴリ:山口素堂資料室
素堂の生きた時代 江戸の自然災害 火事 なおこのとき、町奉行加々爪民部少輔忠澄が殉職したともいう。 俗に「振袖火事」ともいい、焼死者十万七千余人戸伝えられる。 未の刻本郷御茶の水より出火し日本橋に至る。 申の刻に下谷寺町より出火し、永代島に至る。 同刻麻布上杉弾正大弼屋敷より出火し、芝札の辻に至る) 実はこのとき既に、お七は伝馬町につながれ、御仕置を待つ身であった。 17)元禄八年(1695)十二月廿六日 数寄屋橋より出火し、新橋辺東西二十町、南北八町余焼失す。 18)元禄十一年(1698)九月六日 南鍋町新橋より出火し、千住掃部宿に至り、長さ三里余、横四十町焼失す (註…この時、東叡山御仏殿炎上す) 19)元禄十一年(1698)十二月十日 石町二丁目より出火し、佃島に至る。長さ二里余、横二十町焼失。 20)元禄十二年(1699)四月四日 日本橋釘町より出火し、神田見付に至る。長さ二十七町、横十五町。 21)元禄十五年(1702)二月十一日 辰の刻、四谷大木戸より出火し、品川に至る。長さ二里余、横十一町。 (註…申の刻鎮火し、この時、麻布御殿、品川御殿炎上す) 22)元禄十六年(1703)十一月十八日 午の刻四谷北伊賀町より出火し、芝札の辻に至り、戌の刻鎮火す。 (註…この時、紀伊殿並びに鶴姫君御守殿炎上す) 23)元禄十六年(1703)十一月廿九日 戌の刻、小石川水戸邸より出火し、深川永代島八幡後に至る。 (この時、湯島天神祠、神田明神祠、昌平坂大成殿、筋違橋郭門焼失す) 24)宝永三年(1706)正月十四日 神田連雀町より出火し、浜町に至り、七十丁余を延焼す。 25)宝永四年(1707)正月十五日 申の刻、浜町新同心より出火し、南本所業平塚に至り、寅の刻に鎮火す。 26)宝永四年(1707)□□日 亀井町より出火し、永代島に至る。 27)宝永四年(1707)八月朔日 隆(立)慶橋より出火し、小石川に至る。 28)宝永七年(1710)十二月十九日 未の半刻、神田小柳町より出火し、霊岸島に至る。長さ二十五町、幅三、四町より七、八町に至る。 29)正徳元年(1711)正月四日 未の刻、芝土器町より出火し、海辺に至り、夜の入りて鎮火す。 30)正徳元年(1711)正月十九日 和泉町より出火し、霊岸島に至る。 31)正徳元年(1711)十二月十一日 申の刻、神田連雀町より出火し、霊岸島に至り、寅刻に鎮火す。 32)正徳二年(1713)二月八日 浅草観音裏より出火し、本所四ツ目に至る。長さ三里余、幅十三丁。 33)正徳三年(1714)十二月廿二日 辰の刻、下谷池の端より出火し、長さ一里十八町、幅十三町を焼き丑の刻に鎮火す。 千三百余家を焼亡す。(この時の死者三百人という) 34)正徳五年(1715)十二月晦日 夜八つ時、大名小路より出火し、芝口に至り翌正月元日未の刻鎮火す。 35)享保元年(1716)正月十一日 酉の刻、下谷池の端より出火し、霊岸島に至る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 12時41分41秒
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