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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月15日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂、林家の門人になる


元禄    6年 癸酉  1693   52才

 

素堂…… この年、林家の門人となる。『升堂記』元禄六年の条。

(筑波大学、黄東遠氏著『山口素堂の研究』)

《註》… 『含英随記』伯毅著。(高木蒼梧氏著『俳句講座』「俳人伝、素堂」所収。                      「子晋(素堂)之才は擒ふ可らず。葢し林門の三才の随一たるべし」

 

… 『素堂傳』蟹守著、(未見)

「学才我門に絶すと師の春斎も語られき」

 

竹洞年譜…▽ 寛永十四年(1637)生、~元禄九年(1696)歿。年五十九才。

京都に生まれる。父賢知(元徳)。人見卜幽軒は叔父。

▽ 正保 二年(1645) 九才で家綱の御伽となり三丸に候す。十二月家光                                                  に拝謁する。林羅山に学ぶ。

▽ 寛文 元年(1661) 二十五才。閏八月に林春斎と同じく謹仕すべきむ                                                  ね仰せを蒙り、剃髪して友元と称す。この時伝家                                                  の医業を改め儒者に列す。侍講し録三百俵を賜る。                 ▽        四年(1664) 鵞峰の命を受け『本朝通艦』の編集を始める。鵞                                         峰の片腕となって延喜以降を担当執筆した。

       十年(1670) 三十三才。『

続本朝通艦』を編集する。時服三領、白銀百枚を賜る。

      十二年(1672) 

法眼を叙す。

▽ 延宝 元年(1673) 

家督を継ぎ七百石を賜る。下野国足利郡西場及び武蔵国足立郡大久保において五百石領す。

それまでの三百石は弟必大が継ぐ。必大は医者として謹仕する。

       八年(1680) 

四十三才。将軍綱吉、林信篤・人見友元と経書を討論する。

▽ 天和 二年(1682) 

第七回の朝鮮通信使来る。竹洞は木下順庵とともに日本橋馬喰町の賓館に出入りして、

朝鮮学者洪滄浪と親交を結ぶ。

       三年(1683) 

『武家諸法度』を著す。時服三領を賜ふ。

▽ 貞享 元年(1684)

 諸家及び寺社の朱印の事をつとめしにより、時服三領、白銀二十枚を賜る。

       三年(1686) 

『武徳太平記』成る。時服二領、白銀二十枚を賜ふ。

(竹洞は『石川丈山年譜』も作成する)

▽ 元禄 六年(1693) 素堂この年、林家の門人となる。

武洞、素堂邸を訪れる。

       八年(1695) 

竹洞、素堂の母の急逝を記す。(『竹洞日記』)                     

       九年(1696) 

一月四日、葛飾牛島の別邸にて卒。年六十才。

竹洞親族

人見卜幽軒     

竹洞の叔父、寛永五年江戸に出てきた光圀に仕える。                             

幕府儒官法眼。寛文十年(1670)歿。

人見必第       

竹洞の弟、寛永十九年(1642)生、~元禄十四年歿(1701)歿。

人見桃源       

寛文十年(1670)生、~享保十六年(1731)歿。

人見愁斎       

卜幽軒の姉の子。林鵞峰に学ぶ。寛文八年彰考館に入る。

寛永十五年(1638)生、~元禄九年(1696)歿。













人見竹洞

『江戸期の群像』による。一部加筆

25歳で関東学士に

「本朝通鑑」に自ら55巻草案

 

天草四郎を首領に三万七千人のキリシタン農民が一揆を起こした、いわゆる「島原の乱」は寛永十四年(1637)に始まっているが、その年の十二月八日、京都で弧々の声をあげた者がいた。人見竹洞である。

通称を又七郎、名は節または友元、字は宣卿、竹洞と号し、さらに亀山、北山、鶴山をどの別号を用いていた。

中国では成年になると実名のほかに親しく呼ぶときに用いる名を字といい、日本ではこの中国の風習をまねて、学者・文人が実名以外に字をつけている。

特に当時の学者・文人は各種の呼称があり大変にややこしい。竹洞の父、玄徳は医を以って朝廷に仕え、後には儒者兼御殿医として幕府に召され七百石を賜わった。玄徳の実弟、人見道生はト幽軒と号し、水戸家の儒臣として光圀に重く用いられ、その子である人見伝は懋斎と号し、剃髪して道設と称したが、水戸史館の初代総裁となり「大日本史」の編さんに父卜幽軒とともに携わった。また竹洞の実弟である必大も幕府の儒官に列せられている。このことからも判るように人見家の一族は学を以って名声を高め、足利学校創始者と伝えられる小野篁の後者と称し、その足利学校へ多くの書籍を寄贈した。

 このように一族こぞって儒学者という名家に育った竹洞は、医と語学(支那語)を父に学び、経史を林羅山に学んだ。学徳は共に高く詩文に長じ稀にみる能筆であったという。二十五歳で関東学士となった竹洞は二百石を賜わり延宝元年(1673)、三十五歳の時父玄徳に代り職を継ぐのであった。

 江戸時代における実証的史学の先駆をなした漢文体の歴史書で、神武天皇から御陽成天皇にいたるまでの編年史、中国の資治通鑑にならって命名したの.が、「本朝通鑑」である。この史書は竹洞の師、羅山が「本朝編年録」と題して将軍に献じたが、明暦の大火(振袖火事)で焼失し、その後、羅山の子の鵞峰(春斎)が命を受け新しく編修して、「本朝通鑑」と名を改め再度将軍に献じた歴史書。この編さん事業に竹洞が携わっている。し

かも総巻三百十巻のうち五十五巻を自ら草案したのである。父の職を継いだのが延宝元年であることは前述のとおりだが、この年に父玄徳が没し、竹洞は武州大久保、野州西場(現西場町)の両所で五百石を領した。

 同八年綱吉が将軍職を継いで間もないころ、羅山の孫に当たる林信篤(風岡 ホウコウ)と竹洞が召され、大学より始め四書・五経にいたる経書の進講を行っている。さらに綱吉は家康一代の事績を前述の両人に編修させ、「武徳大成記」を作らせた。幕府の儒官として厚い待遇を受けた竹洞は湯島に完成した孔子廟で「尚書」の講義を行い、聴講生には諸侯を始め、各地から儒者が集まり大講堂は立錐の余地が無く盛況であった。

 諸侯のうち特に佐賀の鍋島綱茂は詩文乞い、豊後の木下俊長はその門下生となり、竹洞を招へいし大いに文教を興し、蒲の子弟を教育したのである。事実同藩から碩学、帆足万里が出ているが、これは決して偶然のことではない。寛文五年光圀は朱舜水を招へいしたが、この招聘には「大日本史」の編さんを担当していたト幽軒と竹洞の陰の功績が大きく働いていた。時に朱舜水六十六歳、竹洞二十八歳である。

 元禄九年(1696)正月、竹洞は江戸葛飾牛島の別邸で没した。享年六十歳であった。西場町雲竜寺に埋葬。激変する時代社会をどの様に思っていることであろう。大正天皇御即位の大典に際し正五位を追贈された。足利学校に朱舜水の遺物、竹洞の愛蔵した瑠璃の琴台が今もなお現存している。竹洞没年の時、竹洞息、沂(桃源)が寄進したものである。その徳を慕うか足利学校を訪れる人が多い。  



 

 






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最終更新日  2021年04月18日 06時12分59秒
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