カテゴリ:山口素堂資料室
戸田茂睡略傅
茂睡、寛永六年五几十九日今以て駿府城内三の丸に生る。渡邊監物忠の六男にして初め茂右衛門馮といひ、後養家の姓戸田を冒し恭光と改む。 茂睡また茂妥と書き、露官軒、梨本、隠家、不求橋、馮雲寺、遺佚軒、最忍法師、不忘庵、老茂等の別號あり。 父忠は戸田忠勝の次男、鈞命により出でて渡邊山城守茂の養嗣子となり、駿河大納言忠長の附人を命ぜられて大番頭を勤め、采邑六千石を食む、寛永九年忠長の高崎に幽せるるや、罪に坐して大関土佐守に預けられ、翌年二男重以下の一族倶して下野那須郡黒羽の里に蟄居せり。茂睡時に五歳、亦伴はれて謫に那須に赴く。母は清芳院と称し、高家大沢兵部大輔基宿の女、同じく具して下野に適けり。 斯くて死地に在ること十数年、詳かならざれども慶安の交なるべきか、赦されて江戸に帰るを得。其の間培はれたる茂睡の少年期教育の状態は、特に徴索すべきもはなしと雖も、その父母兄伯の薫陶によりて、後年終始一貫して唱道し、隠逸なる生涯に匿れてなほ覇気横溢、名聞を重んじたる武士的教養の基礎と、歌學に對する観念の素地との、幼稚ながらも常時に於て築かれたるは、蓋し推察するに難からす。 既に父に離れる茂睡は、伯父戸田政次に養はれてその氏を称し、三州岡崎藩主本多忠國侯に仕へて、禄三百石を食み、本郷森川宿の邸内に居り。然るに本多家の国政改革の時に際し暇を賜はり、ここに二十年の官仕生涯を放れてまた仕を求めず、達に遯世して浅草金龍寺の邊に卜居し、また本郷丸山本妙寺谷にも住したり、是前、萬治三年宮部甚兵衛の女お呉を娶とり、三男一女を儲く。 常時江戸文化は益々勃興し来り、伸張的新機運を誘致して、革新の聲漸く盛なり、此間茂睡は一頭地を扱いて吠吼せる第一人にして、其の教養師表の如何、私淑の誰なりしかは絶えて知るに由なしと雖も、「僻言調」に言へる先師云々の語によりて、師紹する處ありしは確にして、また常時同流の先輩の所説に聞く處も多かりしなるべく、夙く寛文五年三十七歳にして、歌學に関する宣言を書して其の根本主張を明にせるを見ても、其の根柢たる教養の浅からぬを知る。 而して一旦公的生涯を出でて自由の境遇に値ふや、方に活躍機に際會せり、既にして天和二年長男學を喪ひて悲散なる方なく、翌年高野山に登り住吉に詣で、岐路大磯嶋立澤を過りて茲に歌碑を建て、晩年多数の著作を公にして標的たる二條流を攻撃し、以て其の残懐を遣り、妻に後るゝ七年、賓永三年四月十四日享年七十八歳にして歿し、浅草金龍寺に葬る。 茂睡は素堂の知友
『不求橋梨本隠家勧進百首』
隠れ家のほとりにうへし山桜
花咲くころをおもひやられて
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最終更新日
2021年04月18日 05時47分49秒
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