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2019年05月17日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
山あいの国 山梨県

(資料『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 山梨県は、背の甲斐一国をそのまま境域としてなりたっていて、甲斐の国名が峡に由来しているように、どちらをむいても山また山である。北部から東部へかけては関東山地で、金峰山・国師岳・甲武信番・雲取山などは、いずれも二〇〇〇メートルをこえており、八ケ岳から南へつらなる赤石山脈(南アルプス)には、駒ケ岳・仙丈ケ岳.北岳(白根山)・間ノ岳・農鳥岳など三〇〇〇メートル級の峻険がひしめいている。また南側は、富士山をはさんで丹沢山地と天守山地がふさいでいるので、さながら天然の国境をめぐらしたかの観がある。
 全体に起伏が複雑な地形から、気候は地域差が大きいが一般に内陸性である。甲府盆地の夏はとくに暑く、ほとんど連日三〇度をこえる半面、山地の冬には積雪期間が三カ月以上のところもある。雨量は比較的少ないが、局地的豪雨や台風におそわれると、たちまち洪水の難にあうことがめずらし<ない。
 県土の総面積四四六三平方キ日余のうち、ほぼ中央を商北に走る大菩薩連嶺と御坂山地が、大きく地域を東西に分断していて、古来東を郡内とよび、西を国中とよんでいる。国中には肥沃な甲府盆地が中心にあり、北東からの笛吹川と北西からの釜無川が、市川大門付近で合流して富士川になっており、笛吹川以東は東郡(ひがしごおり)、釜無川中流の石岸は西郡、両者の中間地帯は中郡(なかごうり)、富士川両岸は河内と慣称されている。国申には「和名抄」所載の山梨.八代.巨摩の三郡があり、米麦生産のほかに蚕糸業が発達したが、現在は甲府・韮崎・山梨・塩山の四市と、六郡中三十三町十二村があって、全国有数の大果樹地帯を形成している。
 郡内の大部分は、相模川上流の桂川水系の地で、古くは都留一郡だったが、明治の三新法で南北二郡に分れ、戦後は大月.都留・富士吉田の三市が誕生した。平地がとぼしく地味もやせているため、近世以来農業よりも機織など余業への依存度が大きく、江戸市場を中心とする関東地方との結びつきがつよかった。この傾向は基本的には現在も変らないし、風習や方言は国中よりも関東に近い。

「武田節」のふる里(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 甲州の古い民謡で全国的に有名なものはほとんどんないが、昭和ニニ年につくられた新民謡「武田節」なら、日本中の誰もが知っている。戦国時代に中部地方の大半を領国におさめ、西上作戦にうって出た武田信玄は、何といっても山梨県人の誇りであり、勇壮なメロディーをもつこの歌には、愛郷の念がみちあふれている。
 江戸後期の農学者佐藤信淵は「農政本論」のなかで、治水事業をはじめ信玄のすぐれた民政を指摘しているが、当時の甲州民の信玄讃仰も、戦略ではなく民政の面においてであった。ながらく天領下におかれた甲州では、人数も少なく任期もみじかい代官所役人になじみがうすく、対立がおこるような場合にしのんだのが、信玄公の古いよき時代だった。農民にとって都合のよい大小切租法・甲州枡・甲州金の三法を、信玄の遺徳とする伝承もここから生れた。しかし、三法が許されたのは国中の三郡だけだったし、郡内の人びとは国中を指して甲州とよび、武田氏の候統とは異る世界を自認していた、郡内の独自性は、偉令制の崩壌に乗じて小山困氏が侵入して以来、国中の甲斐源氏に対抗する政権を築いたところからおこり、信玄の盛時にもその相対的独立を承認せざるを得なかった。したがってそこに三法の伝承が生れる余地は、はじめから存在しなかったのである。
 県都甲府は、武田氏の信虎・信玄・勝頼三代の城下町だったのにはじまる。武田黄の滅亡後、今の甲府駅前に甲府城ができ、城南を中心に新しい城下町が建設されるにあたっては、旧城下町から移転した人びとが草分けとなった。そのなかには武田御家人の子孫で商人にあった者が多く、町年寄や長人には主にこれらの人が任命された。

そとからみた県民性(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 きびしい甲斐の風土と歴史環境が、どのような人柄をはぐくんできたかについて、大正初年に刊行された「東山梨郡誌」は、当時の評論家山路愛山の観察を、つぎのように紹介している。
 国民(県民)の性格は一言にしていえば、人生の修羅場なる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の租先は痩せ地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざる能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺めること能はず。彼等にありては、人情も詩歌も夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ。
 彼等は人生をまだ戦場なりと自覚す。故に奮闘す。(略)往々にして極端なる自已中心主義なり。去れど彼等はこれと共に堅忍不抜なり。直情径行なり。其向ふ所に突進して後を顧みざるなり。故に彼等は財界の雄者として成功す。彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩(おお)ふ所なきなり。
半世紀以上前の評であるが、はたして現在はどうであろうか。謙虚に省察の資としたい一文である。





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最終更新日  2021年04月18日 05時45分12秒
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