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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月21日
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カテゴリ:山口素堂資料室
没後も生き続けた素堂家系と俳諧

  
  誤伝、山口素堂その後(新提示・未稿)
            山口素堂資料室 清水三郎著

1、素堂と俳諧

 山口素堂については、松尾芭蕉のように詳細には伝えられてはいない。これは素堂が早くから隠遁生活に入ったことにもよるようである。
 芭蕉は俳諧の宗匠として自立し、後に退隠して俳諧の芸術性の追求に突き進み、晩年は俳聖と讃え称されるようになった。
 一方時代を同じくする素堂は俳諧の宗匠として道を極めることをやめ、隠士として多くの文化人や著名人たちを交流を深め、芭蕉に俳諧の新風を起こすことを託して助言や提言を繰り返した。多くの識者が芭蕉のものとする、「不易流行論」などは、すでに素堂が芭蕉に先がけて提示しているのである。(『其角編『続虚栗』序文)素堂が芭蕉に先んじていることを示す資料としては、元禄六年(1693)の折り、芭蕉の門人で素堂とも親しい鯉屋杉風が奥州の公羽に宛てた手紙に、「宗匠にて之無き者にも名高き者は素堂と申す者にて御座候」ときしていて、また芭蕉の本屋嘉右衛門宛ての手紙にも

……二日にもぬかりはせねそ花の雲……
 (改め……二日にもむかりはせじな花の春……)
……はまくりにけふは賣かつ若葉哉…… 
 (改め……はまくりにけふは賣かつ若菜哉……)
…右の両句申進候。其外に二三句斗も有之候へ共あまりおもしろからす候故
 御目にかけ申すまし□□、近き内に素堂可参候間御聞可被下候。
 此間は何角用事しけく候故早々申入候。以上
  十九日   桃青
  本屋嘉右衛門様
 
 とあり、他にも多くの識者が偽書とする芭蕉の「素堂先生」の手紙もあるほどである。
 さらに元禄六年(1694)52才の折りにはこれまで出入りしていた林家の正式な門人(『升堂記』)として、親しい人見竹洞と共に活躍した足跡を残す。当時の素堂は人物・識見・教養とも秀でた存在であり、それは大名や当時の著名人との交流の深さを見れば一目瞭然である。
 
 元来素堂は和漢学者で儒学を修めた詩人であり、和歌・連歌より出発した俳諧者であったから、洒落風や比喩体(本人は狂句などといっているが)の傾向のある作風がみられるが、正風体の句も早くから詠んでいる。後世の俳諧研究に携わる人々が「素堂は句作が少なく学者的句が多いなどと批評しているが、これは素堂という人間の研究と追求が浅いことに起因している。素堂は俳諧で世を渡った人ではなく、隠士としての立場を守りながら俳諧者であり、その俳風も軽妙であり、その奥行きでは芭蕉に及ばないかも知れないが深く追求しないのが素堂の持味でもあったのである。従って詠み捨て的な作風もあり、素堂の及ばない部分を刺激された芭蕉が蕉風(正風)という大きな流れを作り上げたのではと思われる。

 素堂は基本的に隠士の立場を守り、生涯門弟はとらなかった。後世の俳諧系統図などに細かい素堂の俳号が掲載され、恰も素堂が生存中から存在していたかの内容をみるが、素堂周辺の資料からは「信章」・「来雪」・「素堂」・「素堂主人」のような号は散見できるが、これは殆ど号と本名一致している。『葛飾正統系図』〔嘉永三年(1850)馬場錦江著〕に見られるような「山口霊神」・「信章斎」・「蓮池翁」・「今日庵」などは後世の素堂門を名乗る俳諧者たちの創作した号である。「素堂」の号は山口素堂-寺町百庵(本人は固辞)-佐々木来雪(素堂三世)までは資料にみえる。(別述) 素堂の家や亭には和漢の教えや俳諧のことを尋ねて来るものは何人か居たようで、素堂没後に『素堂句集』を著した子光や後の馬光などがそれであろう。また親族の中にも寺町百庵や山口黒露など素堂の影響を受けた人々も居た。素堂の家系の後継者としては素堂の嫡孫山口素安が確認できるが、こうしたことは素堂を論じる人々の記載内容には見られないことである。
 結論づけてしまうと、素堂には門人が居なっかったということになる。
2、素堂の社中

 素堂の「社中」については、文化3年(1806)刊の随筆『鳴呼矣草』(おこたりぐ)に、

……社中というは、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植えて、その舎を白蓮社という。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交わりを為す。これを十八蓮社という。謝霊運、その社に入んことを乞う。恵遠謝霊運が心雑なるを以て、交わりを許さず。斯かる潔白なる交友を集会をなさしより、蓮社の交わりと云。
然るに芭蕉の友人山口素堂師致仕の後、深川の別荘に池を穿り、白蓮を植えて交友を集め、蓮社の擬せられしより、俳諧道専ら社中と云う事流行しぬ。云々……
 
とあり、素堂は隠士とはいいながら豊かな生活と多くの交友と語る隠士生活が目に見えるようであり、素堂の社中は百年弱経た時代でも語り継がれていたのである。
 
 素堂の日常生活を示す資料に、佐々木来雪改め三世素堂が『連俳睦百韻』の後序で、……我伝道之祖者貞徳翁也。我教□調之師者葛飾翁(素堂)也。其切精深至 所謂能伝導解惑者也。絶感嘆衆人仰称俳道之宗匠……
 
 これが当時からの素堂に対する多くの人の認識であったと思われる。
 素堂は芭蕉の高弟杉風や其角、嵐雪それに桃隣らを愛し、芭蕉の没後は去来を芭蕉の後継者とすべく努力もしている。嵐蘭や芭蕉の門人とされる曾良とも特別な交友関係を晩年まで続けている。素堂=曾良=芭蕉で行き来した書簡や、その内容からも俳諧には関係ない事柄が示されている。また素堂の周辺には琴風や沾徳、祇空・沾州・序令。郁文・専吟など、先上げた俳人たちの門人も素堂亭に出入りしていた。素堂の晩年を知る好資料である『通天橋』から素堂を忍んでみよう。

3、『通天橋』

…『通天橋』…山口雁山(黒露)編。素堂一周忌追善集。享保2年(1717)刊。
……序文、内藤露沾(風流大名内藤風虎の息子で職を継がずに俳諧を継承した)
  
  かつしかの素堂翁は、やまともろこしうたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとし八月中の五日、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞。おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に芙蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。
 遊園軒
月清く蓮の実飛で西の空 露沾

  追悼…狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
 猿引にはなれてさるの夜寒かな  雁山

  悼…素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雪花鳥のころは、互に心を動し、
  句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世を去て筆の跡を残す。
 枕ひとつ今宵の月に友もなし  衰杖(杉風)

 愛蓮のあるじ尋よくはゐ掘  専吟

  其むかしの句を
 目には青葉うつり行世の野分哉  青雲(甲斐の人)

  山口素堂子さりし八月良夜、また月に思ふ。宗鑑が下の客いかに宿の月、
  といひしは三十年朞年にとなふ。
 下の客に折まて世界柴の露  沾徳

  深川の旧庵をおもへば、あるじなし。文の巧みは人口にありて、おもひ
  だすに
 蓑むし蓑むし錠に錆うき水の月  祇空

  来れるは何ごとぞや。なつかしの素堂、しかじかの夜復命すとや。我此
  人をしらず。それを唯しらず。まことに蓮を愛して周子に次ぎ、名を埋
  て炉下に帰ス。されば其情を同じうして其世を同じうせざることをうら
  む。愁て今さらに其ことをしらんとすれば、炭消えて灰となり、灰空し
  うして一炉寒く、残るものとては唐茶に酔し心のみなりけらし。猶その
  趣を携て一句を積とは、我をしてなかしむるか。汝におなじきものは何
  ぞや。葉は眠るに似てうつぶき、花は語るに似て笑。誰か是に向かひて
  昨日をしたひ、けふを啼ざらめやは。花散葉折て非風謡ひ芦花舞て池水
  秋なり。かれはその秋の冥々たるに入、我は偶然と口明き偶然と手を打
  て後あゝこゝに呈す。同じくはうけよ。
 秋にして舞ふて入けり風の笠  謝道

  素堂翁は、世にありて世をはなれ、富貴は水中の泡と貧泉を苦しまず。
  前の大河、後ろの小流を常に吟行し、武江の東葛飾に住居し、一窓に安
  閑をたのしみ、花の日は立出てとかなで、雪の朝は炉中に炭などものし
  て、沁(?)音にしたしき友を待、さて月のゆふべは即興の章おもしろ
  く、拙からも筆をしめて、まことに其名都辺までも著し。折こそあれ、
  享保のはじめのとし名月の其夜果られしこと、哀も殊勝になつかしくお
  もひ侍りて
 名月に乾く日ごろの硯かな  麦々堂 昌貢

 はづかしの蓮にみられて居る心  素堂
  此句世の人口にとどまり候。此度の一集へ御加入可被成候。
   雁山サマ  桃隣

  三潭印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞記(幕府儒者)
   端石円而大不満尺。
   石而如高山聳峙有其中自然淵。
   濃意味不似異石。
   所謂為硯海有三孔偶通墨矣。
   謂與西海一景三潭印月硯。
   尚二子於記中詳焉。
 雲起す硯の潭の秋の風  雁山
  一とせ野竹洞老人より素琴を送られける趣を
 月見前聞たことありいとなき世

 少し引用が長くなったが、素堂の在世中のことが多少理解していただけると思う。この他にも素堂の『とくとくの句合』の跋を草した高野百里や旧来の友京都の言水も句を寄せている。謝道は館林の人で江戸の茶瓢とともに素堂の座像を作っている。
 前書きでも触れているが、この『通天橋』の連衆は素堂の生前に素堂亭に集まった、芭蕉門の杉風や其角・嵐雪・桃隣らの関係者や沾徳を始め未得・調和・不卜・才麿らの関係者や、露沾・青雲・言水など江戸から上方まで参加している。
 この一周忌追善を主催した雁山(後の黒露)露沾が云うように、素堂の猶子になっていたと考えられるが、雁山と素堂の家系上の関係については複雑な為に後に譲り、素堂の周辺に現れたのは元禄末から宝永年間で、雁山本人が『摩訶十五夜』(まかはんや)の中で……本人が船に乗って浅草にまで芝居見物に行く……下りがあるからである。 
 また『通天橋』の雁山の文中に

… それの春(享保元年)野夫(雁山)京師に侍りしに、この便りに此句に
  て心得よとて、いひ送られしか、猶その際迄も、都の花を慕ふ心、いと
  浅からずや。実に今おもひ合すれば、とく其期を知れるにや。かの文の
  奥に、
 初夢や通天のうきはし地主の花  素堂

 とあり、素堂の辞世の句が示されている。また京都に居た雁山に素堂の急逝を知らせた僕伝九郎の存在や、晩年素堂の周辺居た子光のことは、資料不足で明確にはできないが、旧友の追悼文を見ると杉風(衰杖)は、同じ深川でも新開地のう海辺橋近くに、早くより別荘の採茶庵を開き、退隠後はそこに住んでいた。後世の書には杉風の姉が甲斐に住んでいて、天和三年の春に芭蕉が甲斐谷村に来た折りに、この姉を頼ってきたとの記載もあるが、根拠資料が不足しており、確定していない。別荘は「近き辺りに軒を隔て」で素堂の近所に居て往来していた。
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府から普化宗の総支配寺とされた。この東福寺に元禄年間に通天橋が建立された。今日では紅葉の名所として有名になったが、通天橋の本来の意味は、現世を虚無とする道程を示すもので、解脱することにより完遂すると説き、これにより天への架け橋を渡れるとしたものである。素堂も上京の砌には立ち寄りあるいは請われて宿坊とし使用したのかも知れない。なお素堂は日蓮宗を深く理解し、母没年の元禄八年の夏には深草の元政の故事に憧れ甲斐身延山久遠寺に詣でている。
素堂は谷中の感応寺(現在の天王寺)に葬られたが、その後雁山により他の寺へ移葬されている。
 素堂と京都の関係を示す資料は多くあり、本文に収録してあるので本文を参照のこと。 その他『通天橋』には多くの追悼句文が掲載されているが、拙著『山口素堂の全貌』の本文に掲載してあるので一読されたい。
また文中に「……けらし」「……ならし」らの語句が見えるがこれは素堂がよく用いたものである。

4、子光と『素堂句集』

 子光については享保六年(1721)に『素堂句集』を編んだことは判明しているが、子光自身の姓氏経歴は伝わっていない。俳諧書にも「子光」の名が散見できるが、これが『素堂句集』を編んだ子光とは判別できない。唯句集の中で「私にはまた一つの力助がある。それは素堂の食事のせ世話や身の周りの仕事である。私は幸いに素堂師について十数年になる」と記している。文章も書き慣れた風が見えず、素堂に師事して俳諧や文学などを習っていたのでなくて、雁山に素堂逝去を知らせた「僕伝九郎」と同様な書生的な存在であったのかも知れない。天明3年(1783)晩得編『哲阿弥句藻』に子光追善の句があり、寛政8年(1796)素丸編『素丸発句集』にも子光追悼の句があるが、これが句集を編んだ子光と同一人物かは計り知れない。前掲の子光の名の見える撰集からすれば、子光は天明頃までは生きていたのであろうか。ただしこの時期子光は高年齢に達していて追悼の対象人物は別人である可能性も残されている。

5、馬光と素丸

  馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。
 絢堂素丸は二代目で葛飾蕉門では三代目の総師になっているが、これは素堂を初代とするからである。初代素丸は始め誰に師事したかは判明しないが白芹と云い、素堂の社中となってから絢堂素丸と改め、後に馬光と称した。その門人二代目白芹が統を継いで二代目素丸となった。仮説を逞しくすれば、その素丸が馬光と同胞であった子光の追悼句を贈ったのではないだろうか。

 子光の『素堂句集』序文には素堂の性格や思惑態度が書かれている。

----素堂は聞き分ける力や記憶力が優れていて、
----数多く詠んだ詩歌和文らの作品はみ な己の胸中に秘めて全て覚えている。
----人が紙と硯を添えて句や文を請えば、すぐに筆書を与える。
----左のごとき草稿(『芭蕉庵再建勧化簿』)はここに写して高位高官の人は
----これを召し、好事者は最も鐘愛する。招かれるとそれに従い宿することは数日から----十日にも及ぶ。然るに人や待遇によって勿体振ったり別け隔てる考えはなく、誰彼と----も話し合いしかもその内容については口を閉ざし、人に説く話は固く他言はしない……





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最終更新日  2021年04月17日 15時26分04秒
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