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2019年05月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
『山梨県の考古学』山本寿々雄先生著 

(吉川弘文館 昭和43年刊)

 山梨県の考古学で私が最も尊敬する山梨県考古学の先駆者山本先生の著である。

(一部加筆)

第一章研究史の展望

第一節 概観

日本考占学の研究史上、山梨県出土の遺物や遺跡が比較的早く紹介されたものとしては、例えば、「人類学の友・人類学会・寄合の書留、坪井正五郎の編む「狐の魂」所収の図の一・二・三「甲斐ヨリ出ツの石鏃(やじり)」三点(略)や、山中笑氏による『甲斐の石棒」、同氏による明治十九年(1887)の冬甲府へ移り徒居したる数年間の見聞を刊行した『甲斐の落葉』(刊行は大正十五年・1926)などがあり、当時学界から注目されるところであった。

しかしながら県内に居住する研究考の研究歴を回顧する時、坪井正五郎博士の啓蒙を受け、鳥居竜蔵博士に早く帥事して明治四十三年秋「東京人類学会」に入会した仁科義男氏や、大正の後半鳥居竜蔵博士の『諏訪史』の仕事を手伝われた八幡一郎氏の指導と、そして昭和二年(1927)鳥居博士の住居に参じた志村滝蔵氏が北巨摩郁の坂井を中心とする地域に根をおろした採集・発掘活動が挙げられよう。

仁科氏が広く県下一円にわたる活動をされたのに対し、志村滝蔵氏は一地域において農耕の傍ら発掘・採集を展開されたことはそう遠くない年代のことである。

この間にあって坪井正五郎博土の自筆による丸山の碑「甲斐国東八代郡下曾根村」にも見える如く「漢鏡一面」、「刀剣数個」の中の鏡は「神獣鏡」として富岡謙蔵氏の著書『古鏡の研究」に紹介され、大正十一年八月、鳥居滝蔵人類学教室主任の紹介になる山梨県庁の事業『古墳調査」に参画した小松真一氏の業績や、後藤守一博士による「赤烏元年鏡発見」の報告など、つぎからつぎへと中央学界に貴重な報告がなされたが、多くは資料の直接的な発表に終っていた。

《山梨県の古墳調査》

山梨県庁による古墳調査は赤岡重樹史蹟調査委員によって大正十四年に、『報告書』第一輯が刊行され、それには「千塚の加牟那塚」・「下曾根の銚子塚」、附「丸山塚」、井の上の「姥塚」、北八代の「地蔵塚」などが紹介された。

昭和に入ってにわかに活発化した考古学調査も、その多くを仁科氏らの手による『史蹟名勝天然記念物調査報告」第八輯刊行の昭和十年代を峠に、その調査活動の昭和前半を飾るが如く、重な大山史前学研究所の北巨摩郡穂坂村・日野春村の二遺跡の発掘調査を最後に戦中の研究は終るもののようである。

山梨県では考古学徒を養成する大学はなく、僅かに山梨大学学芸学部の教員養成講座の中に杜会科の教材研究があるのみで、数名の学生による中学校杜会科における考古学資料の取扱い方なる卒業論文が唯一のものと聞く。

県費によって予算化したのは、大正後半か昭和十年代の「史蹟名勝天然記念物調査委員会」の経費と、戦後の昭和二十三年度に行った「山梨県出土品調査「県下小・中学校に依頼調査票二種」による報告方式、および昭和二十六年度に行なった県下遺跡遺物調査などがあげられる。

近年になって国の三ヵ年計画にもとづく「埋蔵文化財包蔵地調査」があり、山梨県下では昭和三十七~八年にかけて実施された、また公立の都留文科大学には考古学研究会が生れた。

しかしながら一方では、昭和二十九年に開設を見た富士国立公園博物館は、その館外事業の一つとして、戦後その立ちおくれの大きい学問としての研究大系の確立に、小額ながらも鼎費を投入して県内考古学の基礎的調査研究をつづけ、縄文文化の編年研究、弥生式土雛の集成図の作製、古墳分布の現状調査を手がけ、昭和三十五年には航空機を利用しての古墳分布の調査などその積重ねが行われた。この種の基礎的な研究には、筆者並びにグループによる文部省科学研究助成補助金などを使っての全県下石器時代文化の編年研究の継続や、後藤守一博士・斎藤忠博士の文部省科学研究費「東日本における古墳文化の伝播と編年の研究」に参加し、その成果の上に立ってのものであった。



このようにして立ちおくれていた研究大系の確立も、昭和三十年代に入ってからは計両的な調査が開始されるようになり、県考古学界も従来とは異なり大きく変貌するようになった。とはいうものの県や市町村のような公共団体が自ら発掘調査した例は、昭和三十九年の都留市が行った都留市内古渡遺物包含地の発掘調査が公共事業前の良心的な調査の最初のものとしなければならない。また公的な考古学発掘調査は昭和三十八・九両年度、日本道路公団が高速自動車国道である中央自動車道を建設するに当り、工事の事前調査の経費を予算化し、山梨以内の発掘を久保常晴・山木寿々雄が択当することになったことは、今後の破壌から埋蔵丈化財を守る上に大きな寄与をなしたというべきであろう。山梨県の考古学研究の動向についてはすでにのべたところであるが、さらに第二節以降に整理してみよう。

なお研究史の展望や文献等その他の閑係諸資料で整備されている山梨県考古学史資料室(甲府市岩窪)が、昭和四十年同士の力の結集で開設きれ、研究施設として計画的な事業が実施されていることと併せて、こと山梨県内に関してはようやくその研究態勢の整備と共に調査活動が地についたといえようか。とはいっても、これらのことが個人の力、民間の一部有志の力のみによって果たされるものではないことはいうまでもない。

「遺跡が破壊された」どうするのか。単なる報告進達のためのものではなく、その現状・不祥事をどうすれば最も有効適切なのか、文化保護のための関係者等の横の連絡綱の確立は急ぐべきであり、また保存と開発との調整などは、早急に行うべきことではなかろうか。





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最終更新日  2021年04月17日 14時32分07秒
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