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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

一、清和源氏の家系 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

 清和源氏は、清和天皇の六男貞純親王の子孫だということになっている。一書には親王が生まれる十二年以前に親王になったとまで記されている。また、父清和天皇がまだ二歳だった時に生まれたとする系図もある。

 生年・没年・生涯の経歴などあまりにも謎が多すぎる。

 明治十三年(1900)に発表した星野恒の論文では、清和源氏の祖は清和天皇ではない、貞純親王も清和源氏には関係ないという論文であった。この根拠は永承元年(1046)付けの源頼信の告文で、それは、

 

  《石清水八幡宮の納めた願文で頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」》

 

と明瞭に断定していたのである。  

 

 『清和源氏の全家系』

 

…清和天皇-陽成天皇-元平親王-経基-満仲-頼信-頼義-義光-

 『定本甲斐源氏系図』

 

…清和天皇-貞純天皇-源経基-満中-頼信-頼義-義光-

 

 山梨ではこの『定本甲斐源氏系図』が多く用いられている。陽成天皇を祖とすることを嫌う理由は以下述べる理由があるからである。

 

二、清和源氏の祖陽成天皇

 

 陽成天皇は清和天皇の第一子である。元慶元年(877)正月三日、九歳で即位。藤原基経が摂政に就任した。陽成天皇が十六才の時、宮中で嵯峨源氏の源益が殴り殺されるという殺人事件が起きた。史料を検証してみると犯人は自ずと浮かび上がってくる。摂政基経はその責任を取ることを天皇に強要して退位に追い込む。当時の史料では陽成天皇が「乱国の主」、「悪君の極み」などと呼ばれていることがわかる。これが陽成天皇ではなく一代繰り上げて清和源氏と呼ぶことなる。

 

三、元平親王

 

 陽成天皇が不名誉なかたちで退位したので、その系統から皇位を嗣ぐことはなかった。しかし経済的には裕福で生涯弾正尹・式部卿などを歴任(親王任官)位階も三品を与えられた。元平親王の子経基も王号をあたられた。

 

四、清和源氏の初代    

 

 事実は陽成源氏であったにもかかわらず、これを清和天皇と偽称したため、いくつかの疑問が生じた。清和天皇の第六皇子貞純震央がこの系統の中に含まれたため、生没年があわなくなったのはその一例である。

 そして事実に於いて基平親王の子であった経基王を貞純親王の子であると系図を偽造したため、経基王の没年も不明確になり、ひいてはその生涯もまた矛盾に満ちたものとなった。承平八年(938)経基王は武蔵介に任じられた。武蔵国の国司の次官である。遙任ではなく赴任した。経基王は多くの財産を築き上げるために激しいばかりの徴税・収奪を実施した。その結果安達郡司武蔵武芝らの徴税される側から痛烈に反抗されたのである。

 この時、下総国豊田荘の豪族平将門が調停にたった。やがて和解が成立。小心ものの経基王は自分が襲われると思い、京都に逃げ帰り「将門、謀叛の企、必定なり」と報告してしまった。取り調べの結果将門の謀叛は無実と知れた。経基王の臆病ぶりは一度に世間にひろがった。直後本当に将門が叛乱した。《天慶の乱》である。とたんに、経基王の評価が逆転した。やがて将門追討軍が編成されたとき、副将の地位を与えられたが、直接戦うことはなく、すでに田原藤太と平貞盛との連合軍が将門を討ち取っていた。それでも経基王の武勇は世上に喧伝され《天性、弓馬に達し、武略に長ず》ということになった。

 こうして清和源氏は部門の家柄ということになった。この時期には清和源氏は存在しない。基経王が皇族を去り、晩年臣籍の降下し、源姓を賜る。清和源氏の成立である。

 

五、源満仲

 

 摂関政治を布いて財務の人権を掌握していた藤原氏北家は本来武力を持たない公卿であった。政権維持のために一定の武力を必要としていた。この役を引き受けたのは、清和源氏であり、経基王の跡を嗣いだ満仲であった。

 満仲は数多くの受領を歴任して巨富を得た。満仲は《摂津国河辺郡大神郷多田を本拠として、《多田源氏》となった。五弟満快の系統は、多く信濃国に繁栄した。

 

六、源頼光

 

 三代の天皇の外戚として権勢をふるった藤原道長に仕え、道長の新築祝いのときに、家具調度の一切を献上して世人を驚かせた。

 

七、源頼信

 

 多田満仲の三男で頼信が清和源氏の系統を継承した。宮廷武家で早くから東国に目を向けていた。長元元年(1028)に起こった平忠常の乱を平定した。

 

八、源頼義

 

 すでにして頼義は東国の棟梁であった。さらに東国の覇権を奥羽両国に及ぼそうと図った。かくして《前九年の役》が始まった。苦戦でようやく勝利を収めたものの、奥羽に於ける覇権は得られず、野望は宿題として子孫に残された。頼義の弟頼清は信濃源氏になった。

 

九、源義光(残忍酷薄の心なきもの)

 

 頼信の三男義光は、長兄義家の八幡太郎、次兄の加茂次郎という例に従って新羅三郎と名乗った。けだし、大津園城寺の新羅大明神の社壇で元服したからである。母は二人の兄と同じ上野介平直方の娘であった。

 永保三年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になっていた。時に三十九歳である。この時後三年役が起こった。長兄義家が陸奥国で苦戦清原一族と戦い苦戦を重ねていた。このことを京都にいて知った義光は、すぐ上奉して身暇を乞うた。しかしこの戦いは義家の私闘であると見做されていたので、義光は暇を与えられなかったが、義光は身暇は与えられず、出京の許可なく義家の軍陣に馳せ参じた。兄義家は感涙して喜んだ。また、義光は豊原時元に師事して笙曲を学んだ。『奥州後三年記』には前述の他に、この時元の子時秋に義光が足柄山で秘曲の伝授をしたという挿話がある。(この寛治元年には時秋は生まれていない…『源氏と平氏』渡辺保氏著)

 後三年役終了後、義光は京都に戻った。身暇の件については不問に付された。その後義光は、まず左衛門尉に返り咲き、続いて右馬允、さらに兵庫助と歴任してやがて刑部丞に昇進した。

 その時一つの事件が起こった。六条修理大夫藤原顕季との間に訴論が持ち上がった。顕季の修理大夫は従四位下で義光の刑部丞は六位である。藤原顕季は院政を敷いた白河法皇の近臣であった。義光はこの訴訟で勝訴した。

 その内容は陸奥国菊田荘が義光の領地であるとの主張であった。押領を図ったのである。白河法皇の裁決内容は「このたびの訴訟のこと、汝(顕季)に理あることは明白なり、汝の申すところ、まことにいわれあり。されど我思うに、その荘を去りて義光に取らせよかし」というものである。法皇は「義光は夷のような心なき者なり」として義光に顕季の土地を与えることを諭した。顕季は法皇の言に従い、義光に譲状を与えた。義光は「義光」と書いて差し出した。これで主従関係は成立したが、義光は主顕季に従うことはなかった。その後、顕季の身辺を義光の随兵が確認された。この時、義光は「館の刑部卿殿」あるいは「館の三郎」と呼ばれていた。

 五十台の後半になったころ、受領の職にありつき、常陸介(国司次官)に任じられた。遙任ずに現地に赴任した義光は、その地の大豪族大掾家と手を結んだ。大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に館を構えた。この間義光は勢力を伸ばし、常陸北東部一帯に定着する。佐竹郷、大田郷、岡田郷、武田郷(勝田市武田)などがそれである。常陸介の任期が終わると嫡男義業を残した。これが常陸源氏として繁栄する。

 嘉承元年(1106)六月頃、常陸国内で合戦があり、相手は義家の三男、義国だった。義光は息子義業の嫁の実家である常陸大掾家と結んで、義国に立ち向かった。合戦 の内容は不詳である。

 常陸を去った義光は、京都に立ち戻り除目を待つ間、近江円城寺に住む。

 やがて義光が補任されたのは甲斐守であった。当時多くの貴族が補任されても任地に赴任することなく、遙任と称して目代を差遣していたのがこの甲斐国である。義光は遙任することなく甲斐国司としての職務を果たしたであろう。果然甲斐国内にいくつもの義光の私領が成立し、一条郷、上条郷、下条郷、板垣郷、吉田郷、青木郷、岩崎郷、加々美郷、長坂郷、大蔵郷、田中郷、泉郷、等等がそれである。それらの諸郷のうちのあるものは立荘されて荘園になっていった。。加々美荘、逸見荘、甘利荘、塩部荘、石和御厨、原小笠原荘、一宮荘、八代荘、奈胡荘等等がそれである。

 (この部分は史料が見えない)






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最終更新日  2021年04月17日 14時30分20秒
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