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2019年05月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏の祖 源義光(残忍酷薄の心なきもの)

 

 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

頼信の三男義光は、長兄義家の八幡太郎、次兄の加茂次郎という例に従って新羅三郎と名乗った。けだし、大津園城寺の新羅大明神の社壇で元服したからである。母は二人の兄と同じ上野介平直方の娘であった。

 永保三年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になっていた。時に三十九歳である。この時後三年役が起こった。長兄義家が陸奥国で苦戦清原一族と戦い苦戦を重ねていた。このことを京都にいて知った義光は、すぐ上奉して身暇を乞うた。しかしこの戦いは義家の私闘であると見做されていたので、義光は暇を与えられなかったが、義光は身暇は与えられず、出京の許可なく義家の軍陣に馳せ参じた。兄義家は感涙して喜んだ。また、義光は豊原時元に師事して笙曲を学んだ。『奥州後三年記』には前述の他に、この時元の子時秋に義光が足柄山で秘曲の伝授をしたという挿話がある。(この寛治元年には時秋は生まれていない…『源氏と平氏』渡辺保氏著)

 後三年役終了後、義光は京都に戻った。身暇の件については不問に付された。その後義光は、まず左衛門尉に返り咲き、続いて右馬允、さらに兵庫助と歴任してやがて刑部丞に昇進した。

 その時一つの事件が起こった。六条修理大夫藤原顕季との間に訴論が持ち上がった。顕季の修理大夫は従四位下で義光の刑部丞は六位である。藤原顕季は院政を敷いた白河法皇の近臣であった。義光はこの訴訟で勝訴した。

 その内容は陸奥国菊田荘が義光の領地であるとの主張であった。押領を図ったのである。白河法皇の裁決内容は「このたびの訴訟のこと、汝(顕季)に理あることは明白なり、汝の申すところ、まことにいわれあり。されど我思うに、その荘を去りて義光に取らせよかし」というものである。法皇は「義光は夷のような心なき者なり」として義光に顕季の土地を与えることを諭した。顕季は法皇の言に従い、義光に譲状を与えた。義光は「義光」と書いて差し出した。これで主従関係は成立したが、義光は主顕季に従うことはなかった。その後、顕季の身辺を義光の随兵が確認された。この時、義光は「館の刑部卿殿」あるいは「館の三郎」と呼ばれていた。

 五十台の後半になったころ、受領の職にありつき、常陸介(国司次官)に任じられた。遙任ずに現地に赴任した義光は、その地の大豪族大掾家と手を結んだ。大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に館を構えた。この間義光は勢力を伸ばし、常陸北東部一帯に定着する。佐竹郷、大田郷、岡田郷、武田郷(勝田市武田)などがそれである。常陸介の任期が終わると嫡男義業を残した。これが常陸源氏として繁栄する。

 嘉承元年(1106)六月頃、常陸国内で合戦があり、相手は義家の三男、義国だった。義光は息子義業の嫁の実家である常陸大掾家と結んで、義国に立ち向かった。合戦 の内容は不詳である。

 常陸を去った義光は、京都に立ち戻り除目を待つ間、近江円城寺に住む。

 やがて義光が補任されたのは甲斐守であった。当時多くの貴族が補任されても任地に赴任することなく、遙任と称して目代を差遣していたのがこの甲斐国である。義光は遙任することなく甲斐国司としての職務を果たしたであろう。果然甲斐国内にいくつもの義光の私領が成立し、一条郷、上条郷、下条郷、板垣郷、吉田郷、青木郷、岩崎郷、加々美郷、長坂郷、大蔵郷、田中郷、泉郷、等等がそれである。それらの諸郷のうちのあるものは立荘されて荘園になっていった。。加々美荘、逸見荘、甘利荘、塩部荘、石和御厨、原小笠原荘、一宮荘、八代荘、奈胡荘等等がそれである。

 (この部分は史料が見えない)






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最終更新日  2021年04月17日 14時27分14秒
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