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武田義清 (二宮系図…甲斐国の目代、青島下司) 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》
甲斐国における義光系の所領を伝領したのは義光の三男武田冠者義清だった。かれは市河荘を根拠とした。町内平塩の岡は彼の館址だと伝えられている。 義光の子は常陸に嫡男義業、近江国に次男義定を配置する。甲斐に対する三男義清の配置は結果的そうなっただけで、義光がたてた計画ではなかった。もともとは義清は常陸武田郷を配分されて武田冠者と名乗っていた。 ところが大治五年(1130)、その武田郷付近で濫行事件をおこし、甲斐市河荘に配流されたのである。まさに偶然的であった。このとき義清は武田郷にちなむ武田姓をひっさげて、甲斐に移り住んだのである。 なお、義清が甲斐国で有名になった《武田》の名を常陸から持っていったように、後に信濃国で有名になる《小笠原》の名を甲斐国から持ち去ったのは、義清の子清光の三男遠光である。《小笠原》のちいう名は、本来甲斐原小笠原荘(櫛形町小笠原)に由来していたのである。 甲斐国の任期を終えて再び近江円城寺に帰り住んだ頃、義光はすでに六十歳を越えていた。朝廷では義光に刑部少輔の破格の職を与えられた。しかし義光はとんでもない野望を抱いていたのである。それは源家の惣領の地位を競望したのである。すでに嘉承元年(1106)八幡太郎義家はこの世を去っていた。その嫡男義宗は死去、次男義親は西国で暴れ回って泰和の乱を起こし、朝廷の追討を受ける身になっていた。こうして源家の惣領になったのは義家の四男義忠である。 『尊卑分脈』には義光が「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猾んだ」としており、『系図纂要』は「叔父義光、欝憤を含み」としている。そして後代に成立した『続本町通鑑』は「叔父、義光(義忠)の声価を忌む」と解釈している。 天仁二年(1109)二月三日の夜、義忠が郎党の刃傷に遭った、義忠は二日の後の五日に絶命している。ところが『尊卑分脈』には(義光が)「郎党鹿島冠者を相語らい、義忠を討たしめおわんぬ」とあり、『続本町鑑』には(義光が)「密かに力士鹿島三郎をして、義忠を刺殺せしむ」としている。自分の郎党を義忠の朗從とし、油断を見すまして暗殺させたのである。そして義忠を暗殺させた鹿島冠者を義光は極めて残忍な方法で殺したのである。 義忠暗殺の任を果たした鹿島冠者は、その夜のうちに三井寺に馳せ帰り、ことの由を義光に報告した。義光は一通の書状を冠者に書き与えて、弟の僧西蓮房阿闍梨快誉のもとに行かせた。快誉に送った症状には、冠者を殺すように書かれていたらしい。兄からの書状を読んで、快誉はこれに従い宿坊の裏手に深い穴を掘っておき、冠者を捕えて、これに入れ、上から土を被せて埋殺したのである。(『尊卑分脈』) 奸謀を尽くしたものの、ついに源氏の惣領にはなれなかった義光は大治二年(1127)十月二十日に死んだ。時に八十二歳。大往生の人だったと伝えられる。つまりは悪い奴ほどよく眠るということであろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月17日 14時25分42秒
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