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2019年05月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏 源清光 

 

 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

『長秋記』(権中納言源師時の日記)大治五年(1130)十二月三十日条に、この日朝廷で裁決された案件の一つとして 常陸国司申す。住人清光濫行のこと

 

 (【濫行】らんこう。…妄りな行ない。不都合な行ない。) 

 

 大治二年、新羅三郎義光はついに死んだ。この前後の頃、常陸武田郷に本拠を構えていた孫黒玄太清光は、叔父佐竹義業らの援助もあって周辺に勢力を張り、吉田神社・鹿島神社などの社領まで掠領するようになり、周辺の豪族にも恐れられ存在になっていた。『尊卑分脈』の清光の項にはたしかに、甲斐国市河荘の配流とある。やがて義清・清光父子は、やがて甲斐国岳田の地に居を卜した。甲斐に移り住んだ義清は相変わらず常陸武田郷に縁由する武田冠者の名乗りを続けたらしい。

 

 《【配流】はいりゅう、はいる。…流罪に処すこと。罰せられて、遠い土地に追いやられること。》

 

 伝説によると清光は光長・信義の二児を伴っていたという。家督を嗣いだのは信義で、本拠武田の地を領して武田太郎信義と名乗った。光長は逸見荘の領主となり、逸見太郎光長と称した。

 信義の長男有義は家督を嗣ぐべきものと期待されたらしく、武田太郎と名乗って甲斐武田の地にあった。次男忠頼は一条郷(甲府市蓬沢?)を分給されて、一条次郎と称した。三男兼信は板垣三郎と名乗り板垣郷(甲府市善光寺町)の領主、そして末子の石和五郎信光は石禾(石和)を領した。信光は北条時政から側面援助を受け、安田を凌いで甲斐武田党の棟梁になる。平家全盛の二十年間武田党では信義の嫡男有義や信義の弟加賀美遠光の子秋山光朝などは平家に臣従して厚い信頼を得ていた者もいた。

 治承四年(1180)に武田党は以仁王の令旨を受けた。以後四カ月間武田党は沈黙を守る。伊豆では源頼朝が挙兵した。緒戦の山木攻めでは勝利したが、続く石橋山の合戦では散々な敗北を喫する。

 甲斐武田党の安田義定が与党の甲斐工藤氏や市河氏などと富士北麓を移動中に平家方の大庭景親の弟俣野五郎景久らの軍勢と衝突した。これは『吾妻鏡』にあるような頼朝救出を目的にしていたとは思われない。

 九月十日甲斐武田党は挙兵した。頼朝の救出を目的としたが、すでに頼朝は逃れていた。武田党は最初駿河国進撃を変更して信濃平氏の討伐に方向を転換して、伊那谷の大田切城に殺到、城主菅冠者は自刃して果てる。その後も進撃は続き信濃半国を勢力下に置き、甲斐逸見山の谷戸城に帰り着いたのは同十五日であった。谷戸城にすでに北条時政・義時父子が参着していた。頼朝の本軍に合流させるためである。同二十四日には土屋宗達が第二の使者として石和信光の本領石和御厨に来着した。この時点では頼朝軍より武田党の勢力の方が上だった推察できる。

 

筆註

 

 《【御厨】……みくりや。古代・中世の神領。主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民を支配する過程で、成立した。元来、供物を調進する屋舎をさしたが、のちその神領を意味するようになった。内容的には荘園と等しく、史料的には伊勢神宮と賀茂社に限られているが、特に前者は伊勢を中心に全国的に分布し、その数は数百ケ所に及んだ。…『角川日本史辞典

  …… 神饌を調進する屋舎。御供所。

  …… 古代・中世、皇室の供御(くご)や神社の神饌の料を献納した、皇室・神領所属の領地。古代末には荘園の一種となる。》…『広辞苑』

 

 十月十三日、武田党は行動を開始、同十八日武田党は頼朝軍と合流した。富士西麓や黄瀬河の戦いでの源氏は大勝利する、これは武田党の力によるところが大きい。その翌日の論功行賞で、武田太郎信義は駿河守護に、弟の安田三郎義定は遠江守護に任じられる。頼朝の勢力圏の最先端の地である。富士河合戦の総大将は頼朝ではなく武田党であった。(『玉葉』武田党四万余)

 これより先、『玉葉』の十月八日の条には、高倉宮(以仁王)必定現存、去んぬる七月に伊豆国に下着す。当時(今)甲斐国に御座という風評を記している。宇治河で死んだはずの以仁王は生きていて今は甲斐国武田党のもとにいるというのである。

 指揮権を確立したい頼朝は上総介広常を寿永二年(1183)十二月に誅殺する。

 武田党の勢力削減を目的にした頼朝の陰謀が開始される。治承五年(1181)京都の下級貴族三善康信が《世情のうわさ》として、先月七日、武田信義が頼朝の追討使に任じられることになったと、頼朝に伝える。頼朝は直ちに信義を召還して、厳しい取り調べを行なった。信義は起請文を書いて事なきをを得たが、頼朝の疑念と策謀は静かに進行していた。

 

甲斐源氏 一条忠頼謀殺

 

《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

 元暦元年(1184)六月十六日、信義の後嗣ぎの一条次郎忠頼が幕府営中の頼朝の面前に於て誅殺する。直後、忠頼の家人であった甲斐小四郎大中臣秋家は、歌舞音曲の才を愛でられ、頼朝の側近に取り立てられた。

 忠頼の長男、飯室禅師をすでに僧籍にいたため縁座を免れたが、次男、甘利行忠は鎌倉で召し籠められ、僧籍に入って甘利禅師と称したけれども、日立国に配流され、翌年配所において誅殺される。

 元暦元年五月一日、頼朝が下知を下す。「故清水冠者議高の残党、甲斐・信濃において、反幕の陰謀あり、ただちに討滅すべし』。甲斐には小笠原長時、足利義兼の両将に、多数の御家人が付けられた。武田党への残党討滅軍の下知はなかった。そして六月前述の一条忠頼の謀殺である。この事件から二カ月後の八月八日、三河守範頼を将とした平氏追討軍が鎌倉を出発、主だった諸将のうちには忠頼の弟武田兵衛尉有義らの姿があった。元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、

 






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最終更新日  2021年04月17日 14時24分16秒
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