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2019年05月24日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏 石和信光

 

《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

  甲斐の殿原のうちは、いさわ殿(石和信光)、かがみ殿(加賀美遠光)、ことにいとをしく申させたまふべく候。かかみ太郎(秋山光朝)は二郎殿(小笠原長清)の兄にて御座候へども、平家に付き、また木曾に付きて、心ふぜん(不善)につかひたりし人にて候へば、所知など奉るべきには及ばぬ人にて候。ただ二郎殿いとをしくて、これをはぐくみて候ふべきなり。

 

武田信義没。

 

 この間武田信義は哀れであった。文治二年(1186)三月九日、信義は死んだ。年五十九。

 

甲斐源氏 板垣兼信

 

《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

 武田党の棟梁は三男、板垣三郎兼信のはずであったが、頼朝は兼信を好まず、「お前なんか死んでしまってもよい」とまで言い放っている。兼信は頼朝の真意には気づかず、頼朝により所職没収された。建久元年(1190)八月、後白河法皇の願所だった円勝寺領遠江国質侶荘において不当を働き、つきに「遺勅以下の積悪」ということで、所職没収の上に隠岐島に配流されることとなった。兼信はこれまで質侶荘(金谷町志登り呂)の地頭であった。兼信は武田党と頼朝軍は同盟関係にあるとの認識があり、頼朝は武田党は配下であると考えていた。

 

甲斐源氏 武田太郎有義

 

《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

彼の場合は、平氏全盛の頃、平清盛の嫡男重盛の御剣役を勤めた前科があった。頼朝は残酷にもその任を満座において頼朝に対して勤めるように強要したのである。文治四年(1188)三月十五日、すでに平氏は滅亡していた。この日鶴岡八幡宮において、梶原景時宿願の大般若経の供養の儀式が挙行された。頼朝は武田有義を面前に呼んで御剣役を命じた。有義はすこぶる渋った。すると頼朝は御剣役を頼朝の側近結城朝光に命じた。居たたまれなくなった有義は遂電したと伝えられる。その後有義は一般御家人の処遇となる。武田党の棟梁は有義の叔父安田義定が台頭していた。

 

甲斐源氏 安田義定、安田義資 

 

 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

建久四年(1193)十一月二十三日、鎌倉永福寺の薬師堂供養の儀式に参列した義資は、女官に艶書を投げ与えた。これを伝え聞いた景時が頼朝に告げた、武田党の衰退を推し進める頼朝は、この日の夕方、義資は頼朝の下知により加藤次景廉の手により首を切られ、獄門台に梟られた。直後義資の父義定も頼朝の叱責を受けた。

 

 建久四年の十二月五日、頼朝は義定の所領をことごとく没収、遠江国の浅羽荘はの地頭職は加藤次景廉に与えられた。建久五年(1194)八月十九日安田義定は梟首された。年六十一歳。

甲斐源氏 武田有義

 

 《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

 頼朝の厚い信任を受けていたと思われていた梶原一族が全滅される。すでに正治元年(1199)頼朝は死んだ。二代将軍は頼家となる。武田党の棟梁有義の名が最後に現れるのは正治二年正月二十八日である。甲斐に末弟石和信光が鎌倉に馳せ参じて、兄武田兵衛有義、梶原景時が約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くによって、子細を尋ねんが為に、かの館発向するのところ、先立って中言あるかの間、かねてもって逃亡し、行方知らず。室屋においては、あえて人なし。ただ一封の書あり。披見するの所、景時が状なり。同意の条もちろんと云々。

 書状は景時が武田党の棟梁武田有義を次代の将軍に擁立するというものであった。有義は行方不明とされているが、『系図纂要』では正治二年(1200)八月二十五日に有義は死んだという。

 

甲斐源氏 石和信光

 

《奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』》

 

 石和信光は、この頃から武田五郎と称するようになった。信光は源平合戦の真っ最中の寿永二年(1183)初頭のころ、東国を制覇した頼朝と北陸の覇者木曾義仲とが、いかなる関係を結ぼうとするかという時に、信光が木曾義仲の宿館に使者を送り我に最愛の娘あり、木曾殿が嫡子清水冠者義高殿を迎えんと欲す。政略結婚による同盟締結の申し入れであった。しかし木曾義仲は一言にして申し入れをはねつけた。信光は遺憾に感じ、直ちに鎌倉に向かい、木曾義仲の讒言した。特に「平氏と一つになって頼朝を滅ぼす梟悪の企てなり」の言が頼朝を動かして、軍を碓氷峠に進めた。この時は義仲は嫡男義高を人質に出して事なきを得たという。

 寿永三年(1184)頼朝は いさわ殿、ことにいとおしく申させ給うべく候。 と書状にしたためた。この時信光は三十九歳だった。信光の行動派北条氏代々の諸陰謀と微妙に交錯し、数多くの謎の渦となっている。建久三年(1230)の阿野全成事件、健保三年(1213)の和田氏の乱、承久元年(1219)の三代将軍実朝の暗殺事件などに信光は謎の行動をとっていたのである。三代実朝が甥の公暁に暗殺された直後に、真っ先に駆けつけた信光は、逃げる公暁を見失ってしまった。

 信光の墓は北条時政の創建した伊豆願成就院の裏手には信光ゆかりの信光寺がある。

 その後、これから三百年の間、石和御厨が武田党全体の本拠地となる。

 

 今回、奥野敬之氏書『清和源氏の全家系』から甲斐源氏の動向を見てみた。甲斐源氏の祖と仰がれている、新羅三郎義光の濫行については、今まで甲斐ではタブ-視されていた。市町村誌などにも、何故か避けて書されている場合が多い。如何に群雄割拠の時代とは云え、甲斐源氏の祖とするには酷い所業である。新羅三郎義光が確かな史料に基づいての甲斐の居住地及び去住年は不詳である。

 その息子で甲斐に配流された義清にしても、常陸を追い出されて来た人物である。最初に居住したのは現在の市川である。その後逸見に居住したというのは「逸見」と地名がもたらしたもので、清光さえも寺院や神社の由緒書はあっても、居住地は史料からは見えない。志町村誌も著者の主観が先行している場合が多く、歴史の史実では無い。濫行、兄弟や親子でも裏切りや謀殺など、血塗られた甲斐源氏の歴史を今後は正しく伝えて行くことが歴史に携わる人々の責任である。こうした事は武田三代の信虎・信玄・勝頼にしても同然である。いくら神聖化して見ても、山梨県は兎も角も、長野県や信玄が侵略、殺戮を繰り返した地方に於ては、「憎くっき信玄」である。人を石垣にして、人々を城に見立て、侵略するほどに死体の山を築いた戦国武将たちは、子供の眼にどんな風に映っているのであろうか。

 






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最終更新日  2021年04月17日 14時23分47秒
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