2296887 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月24日
XML

甲斐源氏と谷戸城


資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。


谷戸城は古城跡として山頂部の中郭部
(一の郭)をはじめ中腹の東西両郭(二、三の郭)、更に土塁などの遺構が存在しており、往時を偲ばせるものがある。

『甲斐国志』古跡の部「谷戸ノ城跡」には、次の記述がある。

「山ノ高サ数十丈、北ハ八ガ岳ノ麓ツヅキ、東ニ泉川流レ、西ニ町屋トテ人戸アリ。南ヲ城ノ腰ト云フ。山足ヲスベテ城下ト唱へ御所村ト呼ベリ。本丸方五、六十歩、ニノ丸・三ノ丸曲折アリ。溝塁粗々存ス。逸見郷ノ中ニ最モ高キ処ニテ数里ヲ下視スベシ。遠ク望メバ茶臼ノ形ニ似タリトテ茶臼山トも名ヅク。スベテ城跡ヲ茶臼山ト呼ブコト諸州トモニ多シ、土中ヨリ兵器・鉄具等ヲ獲ル事アリ(中略)古伝ニ逸見源太清光、此ノ城ニテ建久六年六月ヨリ病ミ、正治元年六月十九日逝ス。乃チ城内ノ鎮守八幡宮へ配祀シ開源明神ト号ス(後略)

この谷戸城は村指定の史跡となっているので、更に詳細に紹介しておくことが必要と思われるので、やや長文になるが、参考となる『日本城郭大系』(新人物往来社刊)より城郭の実測を引用しておきたい。


『日本城郭大系』


山頂にある中郭部は東西三〇メートル、南北四〇メートルほどの三角形に近い形態をもち、周囲に高さ二メートルから
○.五メートルの土塁を有している。この土塁の外側には、また土塁があり、東西にふくらんで、それぞれ東西に郭を形成している。東側の郭(二の郭)は東西三〇メートル、南北六〇メートルほどあるが、土塁に沿って帯状の窪地がある。

土塁(b)もこの付近では高くなっている。また、西側の郭(三の郭)は幅一五メートルほどの帯状の平坦地であり、二の郭が一の郭と同じ高さであるのに対し、この三の郭は一段下がっている。土塁の北側には土塁が並行して存在するが、その外側には東西四〇メートル、南北五〇メートルほどの平坦地があり、ここに四の郭を想定できる。さらに土塁の東側一段下がった所に幅五メートルほどの平垣部(腰郭)が土塁との間から延びてきている。この腰郭の東南には、東西二五メートル、南北二五メートルほどの平坦部(五の郭)がある。城山の南斜面には、数段の帯郭があり、なかでも中ほどにある帯郭は東南端から南斜面をめぐって西斜面を取り巻いている。西斜面には幅二~三メートルの帯郭が三段連なり、その下の西南端には一〇メートル四方の平垣部がある。城山の西麓に「町屋」という字名をもつ所があるが、これも郭と考えられる。ここに数戸の人家があるが、西側の西衣川沿いには土塁も残っている。城山の北麓、四の郭の北には一段下がって空堀と土塁がある。東麓には、幅一〇メートル、高さ一メートルほどの北側から続くと思われる帯状の遺構がある。この遺構から内側は窪地となり、窪地を越えると四の郭へ登る道が北へ回りながら上っている。城山の南東端で、五の郭の下に小さな堅堀とも考えられる溝が斜面を下がっている。外郭施設として、町屋の南から北へ上がる堀、城山の西に突き出た尾根を切断する堀なども想定できる。谷戸城のある山頂からの周囲の眺望はパノラマ状に展開されており、東に朝日山砦・源太ケ城、南に深草館・新府域が見え、遠く甲府盆地までも一望にできる。しかも背後には雄大な八ケ岳連峰が東西になだらかな裾野を大きく広げており、天王山、観音平の蜂火台を望むことができる。


甲斐源氏と清光寺


資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。

清光の菩提寺となっている長坂町大八田にある朝陽山清光寺は、同寺伝によると仁平元年(一一五一)、清光が谷戸城の近くに帰依する僧宗甫阿闇梨を招いて墓言の道場信立寺を建立したのが始まりという。この道場がおよそ三〇〇年後の室町時代中期の文明七年(一四七五)、足利将軍義尚の時代に曹洞宗に改宗され、清光の二字をとって清光寺に改められた。清光は仁安三年(一ニ八八)、五九歳で谷戸城に没し、城の西麓に葬られ、法名を宗甫清光院というが、清光寺の前身である真言道場に建つ牌子には清光院殿玄源太公大居士とある。同所にあった五輪塔が移されて現在の清光寺本堂裏山にある目清光の没年には異説があり、『甲斐国志』や『清光寺系図』では仁安三年となっているが、同じ『甲斐国志』でも仏寺の条、清光寺の項では正治元年(一一九九)、ほかに建久五年(一一九四)、同六年説もある。


甲斐源氏武田信義、逸見光長


資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第二節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。

黒源太清光がすばらしい子宝に恵まれ、それぞれの子を逸見荘より国中地方へ進出させ、いずれも要衝を占有させて武力を培かわせたことが、鎌倉時代から室町時代の武田氏、更に室町末期の戦国時代に勇名を轟かせた、信虎、信玄、勝頼の〝武田三代"へと発展していくことにたるのであるが、甲斐國に拓げる武田の始祖となった信義と甲斐源氏本宗ともいうべき逸見茂を継いだ光長は、『尊卑分賑』によると「同日同胞の二児」となっており、しかも、ともに源氏の長男の称号である「太郎」を号しているところから、世にいう、「二人太郎」すなわち光長、信義は双生児であったとの説が生まれたのである。

『尊卑分賑』〈清和源氏義光流、逸見・武田〉の条によると、光長については「上総介、逸見太郎、母」とあるだけで、父母の素性等にはまったく触れておらず、一方信の項は「逸見冠者清光の子也、逸見太郎光長同日同胞二児出生、ヨッテ両人共、太郎ト号ス、逸見太郎光長ハ巳時、信義ハ午刻誕生」と記し、信義の場合についてだけ「母手輿遊女」と明記している。

この両者にかかわる記述から推して二人は同胞ではなく、その生母は別人であったろうと考えられるようになった。特に清光が光長に嫡家たる逸昆氏を継がせ、一方の信義には新領ともいうべき武田荘(韮崎市内)を与えている点を考えれば、明らかに光長は嫡出子としてその処遇を受け、信義の母は清光の側室推論するのも不自然なことではない。手輿は現在の静岡市手越で、往古は東海道の宿駅であった。当時、平氏・源氏が交替で京都内禁裏守護の任(大番制度という。ただし制度化されたのは鎌倉時代)にあったころのことであり、清光が大番出役で京に向かう途中、手輿の宿駅に立ち寄っていたとしても不思議ではない。のちに武威に優れる武田信義が本宗たる逸見光長を凌駕して甲斐源氏の指導権を握る存在となり、鎌倉幕府創設の最大の功労者となったことから、遊女所産という信義の譜に書き直しの作為があったのではなかろうか(広瀬広一氏『武田信玄伝』)と指摘されるようになった。

ところで光長、信義ともに出生年月の記述はなく不明であるが、『吾妻鑑』には「武田信義は後鳥羽天皇の文治二年三月九日、不遇なうちに死去した」と没年について触れており、また信義の菩提寺となっている韮崎市神山町・願成寺の寺記に「太公、文治二丙午年三月九目、武田ノ館ニテ悶々ノウチニ死去、享年五十九、遺骸ヲ寺内ニ収メ願成寺殿峻照國大禅定門トス」とあるところから、逆算すれば大治三年(一一二八)の出生とされ、また八月十五日誕生とする書もある。さきの『尊卑分脈』にある光長の出生が已時とあるのは現在の午前十時ごろの出生ということになる


逸見光長


甲斐源氏の本宗たるべき逸見氏を継いだ光長についての記録はほとんど見られず・わずかに『吾妻鑑』〈治承四年十月十三日の条〉に「
(前略)また甲斐國の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く(中略)武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼信・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光らは、富土の北麓若彦路を越ゆ。ここに加藤太光貞.同藤次景廉は、石橋合戦以後、甲斐国の方に逃げ去る」との記述があり、少なくとも光長は甲斐源氏の一員として源頼朝の源氏再興時に活躍していた痕跡を認めることができるのであるが、これ以後の消息を知るすべはない。

『甲斐国志』にも光長に関する確たる記述はなく、ただ『尊卑分脈』によると、光長の系譜には太郎基義(本名義経改め)、三郎義長(またの号深津四郎)、義俊(皇嘉門院判官代)、五郎保義らの子を記しており、逸見本家は基義より

惟義-義重-惟長-義隆-隆継-隆信へと受け継がれていったことを記している。

さきの『吾妻鑑』の記述に見られるように、甲斐源氏については武田信義、その子次郎忠頼(一条氏)らのあとに逸見光長の名をあげており、すでに甲斐源氏の本宗は逸見氏から武田氏に移っていたように受け止めることができる。光

長についての史料が見出せない以上、甲斐源氏の実権がどんな理由で信義の手に移ったかを知るよしもないところであるが、あるいは両者の武将としての素質の上で信義に一日の長があったからとも考えられる。研究者の間には智謀、統率力などの点で信義がはるかに光長を超え、総領職の座に着いたとの説もあるが、これとても推測の域を出るものではない。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月17日 14時03分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[北杜市歴史文学資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X