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2019年05月24日
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カテゴリ:子どもの事

長嶋 茂雄 ながしま しげお

 

『歴史読本 スペシャル』19885 「有名人のその少年時代」

 

 有名人のその少年時代

 
昭和11年(1936)~ プロ野球選手。立教大学から巨人軍に入団。王貞治とともにON時代を築き「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれた。引退後、巨人軍の監督に就任。二年連続リーグ優勝を飾る。

 

・・・玉広居の合間に、見よう見真似でバットを振った・・・

 

千葉県片倉には“いも連隊”異名があった。佐倉隊の五七(ごーなな)連隊兵舎があり、長島雄が生まれた臼井町(現在は佐市に編入)ではカーキ色の軍服姿はめずらしくなかった。

 町立臼井国民学校に通っていた茂雄少年は、クラス一のチビで、朝礼では列の最後列にくっついて並んでいたが、おそろしくすばしっこく、徒競走などはいつもトップでゴールインした。

学校の行き帰りに「おいっちに、おいっちに……」と号令をかけながら兵隊について歩いていた茂雄が終戦を迎えたのは、小学校四年の夏のことだった。

 戦前から千葉県は野球がさかんな土地だったが、敗戦後は臼井町の青年団の間にも草野球チームがいくつも作られた。

茂雄の兄・武彦も「ハヤテ・クラブ」という青年団チームに入っていて、レフトを守っていた。この武彦に球ひろい要員として連れていってもらううちに茂雄はすっかり野球熱に取りつかれた。

 外野でボールを追っかけている合間に、青竹を切って作った手製のバットで見よう見真似のスイングをしたりした。町役場の収入役をしていた父の利は、この末っ子のために千葉市まで行ってキャンバス地のグラブを買ってきた。

 「ハヤテ・クラブ」の監督は、料亭「米新」を経営するかたわら信用金庫に勤めている辻千代治で、メンバーには町内の若且那や農家の二、三男坊が多かった。本物のバットはまだ貴重品だったから、近くの山から切ってきた杉丸太を削ったものを使っていたし、ボールも手作りだった。

茂雄は小学生のくせに、青年団チームのレギュラーとしてショートを守っていたが、一方ではこの手製ボールの供給係でもあった。

 「ハヤテ・クラブ」の使用球は、ビー玉を芯にして、そのまわりに干した里イモの茎を紬かくほぐして巻きつけ、その上にひょうたん型に切り取った布を二枚、ぴったり合わせて糸でかがったものだった。茂雄の母・ちよは、ボールの糸かがりの名人でもあった。

 そのうち茂雄らは、進駐車関係者がゴルフを楽しむ皆野台コースまで出かけ、ロストボールを拾ってきては手製ボールの芯にした。この新型のボールを使うようになってから、「ハヤテ・クラブ」の打球の飛距離はぐっと伸びた、という。

 昭和二十三年春、茂雄は佐介・臼井二町組合立中学(現、佐倉中)に進んだ。校舎は旧佐倉五七連隊の兵舎である。板張りの廊下や教室にはまだ軍靴のにおいが生々しく残っていた。そんなところが映圃関係者の興味を引いたのか、茂雄が入学してまもなく、ここに映画のロケ班が繰り込んできた。山本薩夫監督、木村功主演の「真空地帯」の撮影だった。人一倍ヤジ馬根性のつよい茂雄は、授業もそこそこに見物に駆けっけ、映画が封切られたときも、いの一番に近くの映画館で見た。

 その映画でのピンタを食らわすシーンに影響されたわけではないだろうが、臼井から佐倉まで京成電車で一駅の電車通学のさい、改札口で上級生と取っ組みあいの喧嘩をして‟チビの長島“の勇名をとどろかした。改札口で足を踏み付けられて、「謝れ」「謝らん」から始まった他愛のない喧嘩だったが、相手が三年生だったので、たちまち評判になった。

 子のころの茂雄は‟チビ“とか ‟ポチ”とか呼ばれていたが、敏捷さでクラスの人気を集める少年でもあった。そのころ佐倉中の一年は、男、四クラス、女、四クラスに分かれていたが、、茂雄はよく女生徒ばかり集まっているバレーコートに出没し、「あれまた、長島さんは……」

 と、小言をいわれた。野球のスパイクシューズをはいたまま、平気な顔でボールをトスしていたからである。

 一年生で野球部を志願した男子生徒は百人ほどいたが、茂雄はチビのくせにすばしっこさを買われて、秋からレギュラーに選ばれた。ショートでトップ打者だった。二年生になって身長が急に伸び始め、三年になったころはクラスでも中以上になった。夏に着ていた制服の上着が秋にはツンツルテンになって着られないほどの急成長で、計ってみたら身長はIメートル六六に達していた。

 「野球に夢中になっていたから、学科のほうは中の下、というところだった。体操が5、国語、社会がともに4、あとはムニヤムニヤという成績だった」(長島茂雄『燃えた 打った 走った』講談社刊)。

 野球部の主将だった茂雄は、卒業に当たって三年四組のクラスメイトに長文の寄せ書きを贈った。

 

「桜花らんまんたる四月、私は貴君達と胸を躍らせ、希望に燃えて佐倉中学の門をくぐりました。

それがあと数日で別れなければなりません。(中略)

やがて学校を去り、広い広い社会へ進みますが、如何なる困難にあっても屈する事なく、

如何なる悲しみにあっても希望の光を見失う事なく、何時も微笑して心ひろびろと、

周囲を清く明るく、お互いに行きませう」

 

昭和二十八年八月一目、佐倉一高に進んだ茂雄は、大宮球場で行なわれた対熊谷高戦でバックスクリーン右へ大ホームランを放ち、プロのスカウトからも注目される存在になっていく。(新宮正春)






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最終更新日  2021年04月17日 13時51分39秒
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