2295694 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月24日
XML
カテゴリ:子供資料室

有名人のその少年時代 竹下 登 たけした のぼる

 

『歴史読本 スペシャル』19885 「有名人のその少年時代」

 

大正13年(1924)~政治家。

官房長官・建設省・大蔵省と閣僚歴を重ねる。「創成会」を旗揚げし、竹下派を結成。自民党の最大派闘を背景に、昭和六十二年、中曾根首相より首班指名をうけ、組閣。

『人を叱るな。母の教えを忠実に守った登に、悲しい別離が』

人と人も別離ほど恋しく、切ないものはない。これは人間、だれしもが経験することで老若男女、そして貴賤の区別はない。

 いまをときめく、首相・竹下登は、多感なその青年時代、ほぼ同時に敬愛する母と最愛の妻、この二人と死別した。それも、その死を後に知らされ、野辺の送りもできなかった。という別離の悲哀を一人で背負っている。ここに人問・竹下の素地がかくされていた。

 政治家・竹下は飛鳥のように、宰相への黄金の階段を駆け登った。

二度にわたる内閣官房長官、大蔵大臣五期、そして自民党幹事長と、その軌跡は鮮やかだ。国会入りして三十年目でつかんだ最高権力だ。だが、竹下はこの間、ただの一度も他人を叱ったことがない。これは母・唯子の「他人を叱ってはいけない」という教えを、いまだ忠実に守っているからだ。竹下は、政治への道を父・勇造から承け、人間性は母・唯子から継いだ。

竹下は大正十三年二月二十六日、島根県飯石郡掛合村(現、掛合町)で、酒遺業を営む勇造・唯子夫婦の長男として生まれた。勇造は戦前、同村長と県議になり、終戦後までつとめた地方政治家だ。母は、竹下家の家付き娘で、県都・松江で松江高女に学んだ才女だ。その母が、少年時代の竹下の教育・(しつけ)に厳しくあった。女系の竹下家でぶりに生れた男児 登は、家族や使用人達から甘く育てられかけた。その甘さを吹っ飛ばしたのが母だ。「登は将来、村のリーダーとなる人間、甘く育てたらあかん」、こういって、登少年にスパルタ教育をした。この教えのなかの背景が「他人を叱るな」だった。

 成長した竹下は、上京。早稲田高等学院(旧制)に昭和十七年春、入学した。その直後、竹下は空襲に飛来した敵機・米軍機をはじめて見た。前年の十六年十二月八日に開戦した太平洋戦争も、一年たらずの間に、東京が米軍の制空権下になりつつある戦局の厳しさを思い知らされた。

早稲田マンになったものの落ち着いて勉強できる環境ではなかった。二年になった十八年秋、早大からも学徒出陣があいついだ。

こんな状況で、竹下も戦場へと心は躍った。十九年八月十五目、学徒出陣で竹下も陸軍航空隊に志願、埼玉県の熊谷陸軍航空学校に入校した。ちょうど、敗戦一年前の日だ。飛行兵の卵の竹下は、やがて同校軽井沢分校、調布(東京)所沢航空整備学校などを、教官として転々とした。

 年は二十年に改まった。その三月、母、唯子は子宮ガンを病んでいたのだ。唯子は病院の上空をときどき飛来する航空機を病室の窓から眺めては、「あれに、きっと登が乗っているに違いない。お国のためにがんばって」と折っていた。だが、それも束の間、たった一人の跡取り息子登の名を口にしつつ逝ってしまった。だがその枕元には竹下の姿はなかった。勇造が、「御奉公に差し障りがあっては・・・」と登に母の死を知らせなかった、竹下が母の死を知ったのは、後々の事だった。

 それから二ヵ月後の五月、竹下家にまた不幸が訪れた。竹下の妻・政江が、姑・唯子のあとを追うようにして亡くなったのだ。この新妻・政江の死もまた、竹下のもとには知らされなかった。政江は夫・登にも看取られずにひっそりと土に帰り、その不幸な短い二十年の生涯を閉じたのだ。

報に呆然として、生きる気力もなくしていたとき、母と妻の死を知って、ハンマーで頭をなぐりつけられた以上の衝撃を感じた。とくに政江とは、学徒出陣を決意した十九年五月、バタバタと急いで結婚した。竹下が未婚のまま戦地に赴き、もし戦死したなら、竹下家の跡取りがいなくなる。そこで、竹下家の断絶を避けようと結婚を急いだのだ。だから、登と政江の新婚生活はわずか百日足らずで終わってしまったのだ。

 しかも、竹下は政江の死に悔恨の思いで一杯だった。母からあれほど「他人を叱るな」と教えられたのに、竹下はたった一度、その禁を破った。

 それは、ある目突然、政江が飛行学校に竹下を訪ねて来たからだ。ほんとうなら一日休暇をとって歓待するのだが、竹下は、「武人の妻として会いに来るとは……、女々しい」と、ろくなことばも交わさず、叱って追い帰したのだ。

 これが当時の武人・・・学徒兵のとる行動だったのだ。政江には、なにか竹下と急に会わなければならない、切羽つまった事情があったのかもしれない。それとなく竹下には推察できたのだが、・・・。それでも竹下は心を鬼にして政江を追い帰した。これが登と政江の悲しい最後の別離となった。竹下の「人を叱らない」慈愛の哲学には、こんな‟秘話“が秘められていた。(菊池久氏著)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月17日 12時29分09秒
コメント(0) | コメントを書く
[子供資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X