カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
白州町・尾白川 おじらがわ」日本名水百選に指定される。
尾白川は、駒ヶ岳に源を発し、釜無川に合流する。尾白川の由来は、古来白州の山中に自黒で尾が白い神馬が住み、その霊験は自黒(善悪)を明らかにし、人界を律すると伝えられてきた。その神馬が住む霊境を源とする川であることから尾白川と呼ばれている。 この川は古くから駒ヶ岳の山岳神道との結びつきから住民どの係わり合いが強い。すなわち「尾自の水」は霊水として尊び、山に入る時の身心の清めとし、また下流への配慮として常に流末まで清い水を保つ「尾白思想」を生活の信条としてきた。また本地域の住民は、古くから尾白の水を生活文化、産業などに生かし、誇りと愛着をもって利用し、親しんできた。 本町では、地域のシンボルである美しい緑と清冽な水の流れを次代に引き継ぐため「自然と緑の会」を発足させ、「自然と緑の感謝祭」等の各種行事を行なっている。保全活動として地域住民は、毎月の第二日曜日の早朝「住民一斉清掃日」と定め、「空きかん等散乱防止に関する条 例」を制定し、河川の保護に努めている。 この尾白川が昭和六十年四月五日、日本名水百選に指定されたのである。 環境庁が日本名水百選を指定した目的は、「全国に多くの形態で存在する清澄な水について、その際発見に努め、広く国民にそれらを紹介し、啓蒙普及を図るとともに、このことを通じて国民の水質保全への意識を深め、併せて優良な水環境を積極的に保護すること等、今後の水質保全行政に資する」ことである。「名水百選調査」に当っては、環境庁が都道府県から候補となるものの報告(合計七八四件)を受け、その中から判定条件に適合するものを「名水百選調査検討会」での検討を経て選定した。 その選定の条件は 水質、水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて保全状況が良好なこと、 ② 地域住民等による保全活動察 があること、を必須条件として、河川については、対象水域の水質が良好であり、水に係わる故事来歴や特別な行事議等を有するなどの特徴があり、水質保全活動が優れていることなどを加えている。 名水百選調査は、環境庁水質保全局水質規制課が主体となって行ない、その調査検討委員は、伊藤和明(NHK解 説委員)、宇野佐(国民休暇村協会常務理事)・枢根勇(筑波大学教授・地球科学系)、合田健(国立公害研究所水質土壌環境部長)、高橋裕(東京大学教授。工学部土木工学科)、富山和子(評論家)、西川治(東京大学教授。教養学部教養学科)、森下郁子(淡水生物研究所所長)、八木正一(岡山大学教授。農業生物研究所)である。 これらの調査検討委員と、環境庁水質保全局長、同水質規制課長及び担当官等十四~五名が、昭和六十年四月五日来町して、尾白川の調査をなし、検討委員会で検討の結果、日本名水百選に指定されたのである。 このとき山梨県内では、「八ヶ岳南麓高原湧水郡」(長坂、小渕町にまたがる三分一湧水、女取湧水、大滝湧水)と「忍野八海」(南都留郡忍野村)、白州・尾白川の三件が指定されたのである。前二件はいづれも八ヶ岳や富士山の伏流湧水であるので、 河川として指定されたのは自州・尾白川のみである。 (『白州町誌』清水小太郎氏著) 白州町の気象災害 過去における気象災害は地勢上風水害が最も多く、また農業が主であるため凍霜害、ひよう(雹)害がこれにつぐ。以下本町と共通する県内とくらべながら実態を記述する。 本町は昔からその急峻な地勢と、もろい地質との悪条件によって、有史以来水害は宿命となっている。町を流れる釜無川、尾白川、その他の河川はいずれも標高2000メートル~3000メートルに源を発し、その高度に比較して流下する距離が非常に短く、その流れは激流となり山腹を縦横に浸食し、鉄砲水となって山地で被害を起こし、多量の上石を流下する。本町の河川は東の方向にすべて流れ盆地に向っている。 「あばれ川」を支流にもつ釜無川は、時にとてつもない水害をもたらしたのである。 白州町の気象災害 水害の歴史(江戸時代まで) ◇日本武尊(やまとちたける)入国の折、底地一帯湖水となった。この時玉を埋めて退水を祈ったとあるが、これが水害記録の最初である。 ◇養老年間(718年ころ) 僧行基が旅の途次、洪水になやむ住民を救うため富士川を開いて治水に努めたと伝えられる。 ◇天長2年(825年) 御勅使川の氾濫により釜無川は流路を変え、甲府盆地は大湖水となり、「水没せる人命田畑算なし」とある。このあと武田信玄在世までの60年~70年間にも天災地変が格別多かったようである。 ◇天文9~11年(1540~1542年) 大洪水、とくに11年寅年釜無川大洪水となり、秋8月より冬11月まで甲州一円泥砂の海と化し去る。 「沃野も一木の青葉をとどめず、人畜の被害算うに堪えず。信玄見て以て邦家の大事之に過ぐるなしとし、これより一大土工を起さんとす。」 このようにして万代不朽の竜王信玄堤は16年の歳月をかけ、弘治3年(1557年)完成した。 これより記録されているものとして ◇元亀元年 (1570年)、 ◇天正2年 (1574年)、 ◇天正11年(1583年)、 ◇慶長6年 (1601年)、 ◇承応3年 (1654年)、 ◇元禄2年 (1689年)、 ◇正徳3年 (1713年)、 ◇正徳5年 (1715年)、 ◇享保5年 (1720年)、 ◇享保13年(1728年)。 この年は日本自然災害年表にも諸国大風雨洪水とあるように白州町にも相当な被害があったと思われるが資料がない。 ◇延享4年(1748年) 白州町台ケ原 川除内目論見書上帳(台ケ原村) 尾白川通石積8ケ所、延長88間、 腹付10ケ所、延長254間、 枠5ケ所四九組、 堀川1ケ所長10間、 往還築立一ケ所、長五間、 釜無川通石積腹付1ケ所30間 右の通大破ニ付村中立合内目論見仕候、 延享4年卯12月、台ケ原村(帳箱) ◇延享五年(1748年)白州町鳥原 延享五年辰六月、御注進書之事、家九軒営月五日満水ニ而水押掛ケ候ニ付(鳥原渡辺源輝所蔵) ○宝暦七年(1757年)白州町大坊 当五月満水ニ而御川除ハ不及申上御田地流出仕田畑山崩石砂入ニ罷成道橋押崩シ百姓十方にくれ難儀至極仕候、 宝暦七年七月(大坊新田村道村初夫所蔵) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月17日 12時27分05秒
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