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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月25日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

大菩薩峠を越へて

 平野實氏 高橋寛次氏著

   昭和13年刊『史跡名勝天然記念物』

 

大菩薩峠へ行って見ようと二人で話し合ったのはもう大分前のことだ。しかし距離の長いのと道のよくないらしい話に怖気づいて仲々決行の機会がなかったのであるが、今年こそと思ひ切って出掛けることにした。一つには永年の懸案であった小河内貯水池の工事が着手されたのであまり進捗しないうちに一度見て置かうといふのもあって。

 八月十二日午前七時十八分新宿発、立川で青梅綿に乗換へて。北支の戦雲漠々たりといふ、心なしか立川飛行場は、あわただしいやうな気配に見える。御嶽終点でバスに移る。

左は多摩川の清流が車輪の直下を奔り時に臍を冷すやうな急曲をしたりする、しかし道路は鋪装されて坦々たるもので山中などとは思はれない。ここに所謂名勝「鳩ノ里・鞍馬」などがある。

最初の計劃ではそれ等を見ながら歩いて小河内泊のつもりであったが、それでは第二日の旅程が長過ぎるのでもう一歩さきの川久保まで長驅して、この方は叉の機會もあらうと割愛したのであった。

 氷川で下車。すぐ近く日原川の大橋のたもとに氷川御社は在った。奥の氷川様として、或る人達には武蔵(むさし)文化の紀念的な存在と宣伝されてゐる所である。それはそれとして考へてゐたよりはあまりに町の中の道端であったのは意外であり、なお又兼ねて聞いてゐた杉の大木も想像した程のものではなかった。

 一禮してさてと歩き出す。小さいたがらも氷川の町並は一境方の中心地らしい賑かさを示してゐる。今まで自動車が此所で止ってゐたのでその感を余計深からしめて来たのであらう。貯水池工事の第一歩は道路の改修である。今や多数の工が這入って自動車道は着々巡行してゐる、既にバスも氷川から境まで延長して来た。農家であった道端の家はあらかた労働者の飯場になってしまった。それ等を相手にする酒旗の

ひるがへる店もちょいちょい見える。

探勝にはもう時期がおそかった。建設の前の破壊から醸し出される落着かぬ空気が渓谷を涵してゐる。小河内の谷は今や新なるものを生むために古いものが滅びていく挽歌につつまれてゐるのだ。水根は堰堤の出来る所であそそれは多摩川の本流を横断して高さ百四十丸米、長さ三百二十米世界第二とか称するもので、完成の暁には一億九千萬立方米、即ち村山山口貯水池を併せた量の六倍に当る水を湛へ此所に山湖として雄大は姿を顕現することになる。今私達の歩いてゐるあたりは深い水中になってしまふ訳だ。

 蘇峯氏などはこの谷を讃えてその紀行には塩原にも勝るなどと書かれて、私達に旅情をそそったのであるが果してそれ程だらうか。巌石は少なく小さいし,叉水も帯川程豊かでないだけでも遠く彼には及ばない。それに両岸が殆ど皆杉の若い槙林のせゐいでこれが見劣りのする一因をたしてゐると思ふ。

 やがて原にかゝる、「鶴の湯」と呼ばれる鉱泉湯は思ったより旅館なども多く、貧弱ながら温泉場らしい佇まひをしてゐた。しかし温泉神牡附近にある鉱泉の元は二ケ所とも心細いやうな湧き方で、大根洗場に彷彿たる体裁をして居り、指を入れてみると先づ体温程度のものものである。しかしこれでも島(しょ)部は別として東京府第二の鏑泉なので、その池底に埋炭してしまふ運命は人々に惜まれてゐる。私も此所で一遍泊ってみたいと思ってゐたのでこのまゝ通過するのが一寸名残惜しいやうな気もするのだった。

 一と休みして叉いくつかの小さな部落を過ぎる、この邉まで来るとまだ労働者も入込んでゐないし、土地の人々は何時そんな日が来るといふやうに生業にいそしんでゐて、相当富裕らしい感がする。川野は氷川を更に小さくしたやうなもので商店や旅館もあってかなり賑ってゐる、近年焼けたとかで全村真新しい町並をなしてゐる。此所で本流を渡って支流小菅川の岸に沿うて行くことになる。地図の上ではやがて甲武(甲州・武州)の国境になってゐるが賓際には分水嶺でないので判然としない。面白い境界線だと思ふ、国境は地勢からすれば当然大菩薩を含むあの関東山脈の支脈でなければならぬ筈である。

国境線が当然あるべき筈の所にないのは各所にあって、そこにはよくその由来を物語る神話傳説を持つものだが此所には果してどうであらうか。或は今と逆に文化が甲州から武州の方へ押出して来たのでもあらうか、といふ解釈を考へたりしてみる。何時の間にか甲州に這入って盆地といふ程でもないが谷の少々廣い所に出た、そこには愁々と聚落がある。その一つ川久保は上野原と丹波との道を受けて商店もあり、水道の事務所も建ち宿屋も二三軒ある。川野を更に更に小さくしたもので、青梅から段々渓谷の狭くなるに比例してその中心部落も小さくなっていくのは面白い。青柳支店といふのに泊ることにして一面の座敷に通された。先年道志川の谷に這入って泊った長野のよりは小奇麗だがバラックの感のする家だ、数軒あるが今日は私達二人の外には客が無い。

 据風呂に這入って川を距てた前の山を見てゐるうちに追々暮れていって、七日の月がほんの一と時輝いたと思ふうちに姿をかくしてしまった。室には石油ランプがともされた。何年振りでこのランプを見たことだらう。油買ひ、穂屋掃除をした少年時代が追想される。私が何時とはっきりしないうちに大人になったと同時に、東京ではランプもやがて何時の間にか電燈になってしまって、もう私達の子供にはランプとはどんなものかと説明するのに骨の折れる時代になってしまった。所でこの久闊のランプは新聞も読めぬ暗さだ、これでよく仕事が出来たものだと思ふがそれよりも熱いのに閉口する。

 夕食の後で買物に出てみると、真っ暗な通りはもう戸をしめてゐる家が多い。一軒の何でも屋つまり日本式のデパートに寄ってみるとこの小天地の商権を把握して仲々景気がいゝらしい、不便なればこそへ鉄道を敷いたり道路を改修したりしないに限る。

所で宿で呉れた燐寸を見れば、何んとこの提灯で歩く石ころ通りを「川久保銀座」と称してゐる。銀座もこゝまでくれば徹底したものだ。若し暗闇の銀座を知ったなら蒐集家は喜ぶだらう、この川久保銀座と銘打った(マッ)()のぺ-パーを。

 床に這入ると銀座の裏から川のせゝらぎを伴奏にして河鹿(かじか)のセレナードが聞えて来た。

 

 十三日五時起床。水車を廻す堀で顔を洗ふ、朝食の膳にはやまめの塩焼をっけて呉れた、話や写真、さては映画などでそのうまさうなのに(よだれ)をたらしてゐた待望のやまめではあった。がその割にはうまくなかった、所謂幻滅の悲哀だ。やまめもキャンプでなければ駄目なのか――、

 六時出発、朝露を踏んでと云ひ度い所だが道草には一向水気がない、何しろもう久しく雨をみないので乾燥しきってゐるのだから、仕方がない。今日も上天気、目指す峠の上には一片の雲も無く晴れきって、朝の陽がもうかんかんに照ってゐる。とっくに人々は仕事に出てしまった橋立の部落を過ぎる、これがこの谷で最後の人の住居だ。

道が段々高くなって、水がはるか下になった頃、どこへ水を引くのか一つ堰堤があった。今朝のやまめは此所でとったのだとの話、また石門のやうに見える所もあったりする。澤には山葵(わさび)を栽培してゐる所があって珍らしく見られた。或る澤にかかってゐる白糸瀧といふのはその名のやうにきれいな瀧だった。山は段々深くなるが市の水源涵養林は施業がよく行届いてゐるので不圖公園の中でも歩いてゐるのではないかと思はれる程だ。道も緩傾斜で息のきれるといふ程の個所は殆どない位、本影も涼しく歩いてゐればまさかに汗はにじみ出して来るが.止れば忽ち引込んでしまふ、それに至る所水が豊富に湧いてゐるので全く楽だ。四五十分も歩いては十分十五分と一と休みしてゆるゆると登って行き、行きながら話しては行く。この澤を回れば千四百米、今度は千五百米と地圖の等高線を敷きへながら峠に近づいていく、もう流れは音ばかりで樹の中にかくれてしまった。

 やがて「フルコンバ小屋」に着く。そこには水道局の小屋もあって係員が寝泊りしてゐる。一寸下ると水神と彫られた大石のもとから泉が流々と湧いてゐる。一分とは手を入れてゐられない程の冷たさ、この温度をそのまゝ市民に送られたらと、近頃の日向水のやうな水道の水を思ひ出す。しかし叉百三四十度の炎天下に敵と戦ひながら、しかも一滴の清水さへ容易にありつけたい北支皇軍のことを思ひやれば、日向水でも贅沢千萬な話である。戦地にゐると考へれば我々の貧しい生活も不平はないであらう。まだ十時であるが此所から先は水が無いとのこと故食事にする。宿の大きな握飯二個と罐詰を開く。此の時下の澤に天幕を張って朝食をしてゐた一行が登って来た。

 此所からは大きな最後の谷頭をめぐると、やがて向ふ側の窓の見える地点が近づいた、間もなく峠の頂上だ。あたりは樹木が無くて眺望が急に開らける。甲府盆地側の斜面は足下から急峻で一ととびに塩山(えんざん)まで行けさうに見える。目を上げて遠く望めば白雲の棚引いた中に南アルプスの連山はかくされてゐて、ちょいちょいとその峻峯を顕して、多の日銀嶺がすっかり見える時の壮大さを想像させるのだった。ぐっと左には富士が半分見える、青い山肌には處々まだ雪が残ってゐる。

叉登って来た方を振り返るとこちらは山また山の連衡、自分達がかなり山の中に這入り込んでゐることを思はせる。この峠は武甲を結ぶ古い交通路であったとしても、二千(メートル)近い点を越えるのは容易でなかったに違ひない、孤立した山岳としたら相常な高さだ、闘東では赤城や箱根の神山駒ケ嶽などこれより

はるかに低いのだから、大菩薩の支脈が武甲の交通を阻害したことは甚大なものがある。しかしそれだけに用がなくて登るものには興味があり叉眺めは雄大である。中里介山氏の小説によって宣伝されないとしても、ハイカー達を相當引きつける魅力の十分にあることは勿論で、あの小流はそれによき宣伝の役目をした譚である。

 首の無い地蔵様のそばで嶺頂を背景に撮影する。寫眞屋氏は東京からわざわざ出張しこの下に泊ってゐて営業してゐるのだとのこと、商買も仲々楽ではないとつくづく思ふ。彼はしばらく新聞を見ないが、北支邦事変はどうなりましたかと、浮世ばなれした質問をする。事変のせゐで今年は登山者がずっと少ないなどと云ふ話を聞きながら、暫く休んでゐると汗をかいた肌は寒くなって来る。

 尾根傅ひに嶺頂へ向って進む、そこには梅らしい老木が高山特有の「猿おがぜ(猿麻薯)」をつけて自然のまゝに生ひ又倒れてゐる。

人工の造林ばかりを二日間見飽きて来た目にはこの林相が馬鹿に嬉しく思はれる。その中に二千五十六米九の三角点はあった。こゝで丁度正午である。愈々下りにかゝる。急な草山道だ、下りるのは楽なやうで脚はかへって辛い。あたりはぎぼし(擬宝珠)を主とした秋草が色々咲き競ってゐる。お花畑と云ふ程ではないが高山植物も混ってゐて美事だ。殊に(めず)らしく意外だったのはあやめの一種が可憐な紫の花をつけてゐることだった。あやめと云へば水辺を連想するのに、この高地の水分の無い所に清楚たる姿をしてゐるのだから私は驚かされた。この(あたり)から今まで縦走してゐた嶺の方を見上げると、まるで屏風のやうにそゝり立ってゐた。多摩川斜面の方は谷の中を出来るだけ緩く登って来て、峠を越すと塩山を目がけて一気に下るやうに道がなってゐるらしい。

これは柳田先生のお話に従へば東京側が常然表口で甲州側は裏口と云ふことになる譚である。峠から直接下りて来た道と合さる所に高山植物採集禁止の札が立ってゐて、女まぢり数人の一團が右すべきか左すべきか評議してゐるのに出合ふ。これで私達の知る限りでは今日大菩薩峠へ来たものは四組十二三人となる勘定だ。

 また行くことやゝ暫くで長兵衛小屋に着く。小屋が在るからには水が湧いてゐるだらうと楽しみにして来たが、数町距った森の中まで行かねばならなかった。此所で一と休み、これから後は水の流と道路と一所になったやうな雑木林の中を切込んだ歩きにくい道の連続で、眺望も殆どなく面白くない行程で、膝を痛めないやうに用心して歩くのは全く楽でない。

 やっと人里に出るとこんどは切出した石の屑を敷いてあってこれもまた恐しく歩きにくい道だ。武田信玄と由緒の深い雲峯寺の前を通り裂石の部落に着く。此所で青梅街道に出たわけだが、その街道たるや名は立派だが幅一米そこそこの頗るひどいものであった。寄場からは良い道になってバスが通ってゐた。二人ともそろそろ疲れたし、話も種切になり勝で、午後の暑い陽を浴びながら長いこと白い道を歩くのだった。やっと塩山町に辿り着いたのはもう六時に近かった。振返ると峠の方一帯は何時の間にかすっかり白い雲につゝまれてゐた。(一二、九、六)






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最終更新日  2021年04月16日 20時23分44秒
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