カテゴリ:山梨歴史文学館作成資料
山梨歴史講座 甲斐の主な古墳(1)
なぜ、古墳の少ない甲斐の北巨摩地方に古代の牧が集中していたのか 馬具に注目してみると意外なことに
歴史とは時には誇張されたり、史実を歪めて伝えられることがある。人間がこの世に生を受けて以来歴史もまた続いているのである。歴史資料が無いとか、人の生きた足跡が認められないからと言って、原始人や古代人を現世の人間と比べて、生活水準や文化水準が低く見るような風潮は慎まなければならない。一般に歴史書は中央政権や時の権力を握った人物を中心に描かれている。 読む人々の多くはこれも自らを上に置き上から下を見くだしながら読む場合が多い。歴史研究家の中には触れず語らずの部分も多く、また一方的な主観で書されている場合も見受けられる。 石器時代や縄文時代の人々を野性で野蛮な人物と思い込み歴史感を展開したり、多くの人々の死の上に成り立ってきた日本の歴史を、もう一度見直して見る必要があるのではないか。 例えば山梨県において、武田信玄についてはどうであろうか。もっとも信玄を語る場合に引用される「人は石垣。人は城」の言葉も当時の戦国時代においては、「人を石垣にして、人を城にして」戦ったのである。山梨県を代表する武田信玄であるからと言って歴史を歪めてはならない。 山梨県の歴史は甲斐源氏でも武田信玄でもなく、その時代に生きた地域の人々の耐えに耐えた生き様にこそあるのである。かと言って私は武田信玄を否定する者ではない。全ての歴史を並立して論拠してこそ本当の歴史に近づけるのである。 人は、人の下より人の上におのれを位置づけたがるものであり、これは武将の家系によく見られるところである。現存する歴史資料を調べてみると近視眼的な山梨県の歴史書の多いのに驚く。不詳の部分を不詳のままにしたり、自説を展開して、を幾ら歴史を語ってみてもそれは読む人に空白の歴史観しか与えないのではないだろうか。 甲斐の旧石器時代、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、戦国時代、それに武田信玄・勝頼時代、徳川時代を歴史資料が伝えるものと、その時代の世相をつなぎながら人々に伝えるのが歴史である。私は歴史に手を染めて20年を迎えるが、山梨県の歴史はその主たる骨組みは現在とそう大きく変化をしていない。信虎・信玄・勝頼時代を除いては中央への僚属の歴史である。いわゆる中央集権の末端としての甲斐国の歴史に他ならない。
甲斐の古代
特に古代においての甲斐の歴史は秘められた部分が多く、その解明はいっこうに進んでいない。そこで視点を変えて過去の歴史書から見えてくる甲斐の古代について述べてみることとする。 ここに一枚の地図がある。(『まぼろしの諏訪王朝』増沢光男氏著。巻頭写真/洲羽国図 第四図)製作年度や何時の時代のものかは定かではないが、現在の山梨県の中心地とされる甲府盆地一帯は湖になっている。この図の甲斐国は御坂山系に囲まれた都留郡地帯となっている。霊峰富士は古代から尊敬され畏怖されていた山で、縄文時代の以来の人々の交流範囲を示す遺跡や遺構の発見は、当時においても富士山は話題であったに違いない。 山梨県の多くの遺跡からは富士山や八ヶ岳がよく見える所に多く存在する。これは噴火する山は大地の雄叫びとして、またそのエネルギ-は生の根源として信仰の対象であったことは十分推察できる。山梨県において神社などに多く存在した男性のシンボル状の石棒はやはり生命の根源として崇められていたに違いない。それは現在では想像もつかない信仰心であったと思える。 また縄文時代に「字」は無かったとされるが、「言葉」の有無と直接結びつけることは危険である。有ったとすることの方が自然である。古代文字と古代言葉は別の存在として考えなくてはならない問題である。文字が人々の間に生まれたのは文書で伝える必要の有る社会情勢が生じたことに他ならない。それは中央集権の始まりである。それが隷属の時代の始まりでもある。 甲斐において特筆すべき事は「甲斐の黒駒」のことである。私たちは現在の馬を見たり、テレビや映画の騎馬軍団を見て過去の馬も現在の大きさのような錯覚に陥る。しかし馬の大きさも時代とともに変化している。 甲斐源氏の活躍した時代でも、足が高い現在のような大きな馬は希少価値であり、「騎馬軍団」も映画やテレビほど勇壮なものではなかったのである。ここにそれを示す資料を提示する。 田口計助氏著の『新駒ヶ岳余聞』によれば「平家物語』・『平治物語』・『源平盛衰記』などの現れる馬の高さは四尺五寸~四尺八寸(136、7㎝~145、4㎝)でポニ-程度の大きさとされる。新田義貞の鎌倉攻め(1331年)前後の馬とされる鎌倉材木座より出土した128体の馬の体高は140㎝~120㎝であったと記されている。 ここで田口氏の『新駒ヶ岳余聞』を引用させていただくと「第十一章…考古学上の馬」には西日本国内から出土した馬形埴輪の貴重な資料である。田口氏のこの著作本は甲斐駒ヶ岳についての種々の調査記録が満載であり、馬と駒ヶ岳の結びつきを詳細に述べられていて興味が尽きない本である。歴史書や神社の願文には「巨麻岳」の名称や「白崩山」の名称が見える。関東から北海道各地にある、駒ヶ岳と馬との関係や朝鮮の高麗との関係は複雑で歴史的にみても定説はうまれていないが、甲斐騎馬軍団を抱え関東制覇を夢見た武田信玄の戦法は馬により支えられていたことは間違いないことでもある。
馬形埴輪(引用『新駒ヶ岳余聞』より) 西日本 古墳名 都府県名 推定年代 形 状 鬼の枕古墳 福岡県 五世紀 最も初期とされる 南山下遺跡 大阪府 五世紀 高 54、0Cm 長 86、5Cm 胴長短足 日下遺跡 大阪府 五世紀 高130、0Cm 中型馬 陵南赤山古墳 大阪府 五世紀 高 56、0Cm 鞍つき短足 四条古墳 奈良県 五世紀 高105、5Cm 飾り馬 常光坊四号墳 三重県 五世紀 高 63、0Cm 飾り馬 石薬師63号墳 三重県 五世紀 高 80、0Cm 長110、0Cm 写実的 平所埴輪窯跡 島根県 六世紀 高 80、0Cm 鈴つき飾り馬 塚原B41号墳 大阪府 六世紀 高 80、0Cm 飾り馬 新蒔古墳 奈良県 六世記 高 75、0Cm 飾り馬 新蒔古墳 奈良県 六世記 高 83、0Cm 男に曵れる裸馬 石見遺跡 奈良県 六世記 高 85、0Cm 三角目の飾り馬 川田遺跡 滋賀県 六世記 高 38、0Cm 騎馬用 矢田野エジリ古墳 石川県 六世記 高 64、6Cm 人が乗る飾り馬 八女市 13 墳 福岡県 馬に天冠をつけた人 飯塚市下の谷窯跡 福岡県 人の手がある馬 井辺八幡山古墳 和歌山県 六世記 高 87、0Cm 長124、0Cm 応神陵古墳 大阪府 高 7、7Cm 長 10、0Cm
東日本 白藤V-6号墳 群馬県 五世紀 高 50、0Cm 人面 丸塚古墳 福島県 五世紀 高 98、0Cm 鈴つき飾り馬 酒巻14号墳 埼玉県 六世紀 高 74、5Cm 旗を立てた馬 酒巻14号墳 埼玉県 六世紀 高 46、0Cm 人が曵く馬 生出塚6号墳 埼玉県 六世紀 高100、0Cm 馬鈴を強調 経僧塚古墳 千葉県 六世紀 高 92、0Cm 口先筒抜け飾り馬 白藤P-6号墳 群馬県 六世紀 高 56、0Cm 赤着色皮帯 塚廻り6号墳 群馬県 六世紀 高 86、0Cm 写実的な飾り馬 境町渕名 群馬県 六世紀 高 辻金具が実物大 高林西原古墳 群馬県 六世紀 高 70、4Cm 少年が乗る裸馬 太田市西長岡 群馬県 ~ 世紀 高114、0Cm 飾り馬 三昧塚古墳 茨城県 六世紀 飾り馬 姫塚古墳 ~ 世紀 高 墓主と四頭と余人の御者
このように馬は大昔から人々の生活に溶け込んでいたのである。山梨県でも確認されいる遺蹟の中には馬に関する古墳もあった。(別講座参照) 甲斐勅旨牧の研究、古墳の装飾品の馬具との関連も深く鋭く追求することが肝要と思われる。 そこでこの講座においては、甲斐の古墳の概要を調べてみろこととする。 山梨県の古墳
山梨県で特質されるのは明治二十七年(1894)に山梨県三珠町鳥居原古墳(狐塚)で発見された赤烏元年(呉の年号/西暦238年)の四神四獣の銘文を持つ鏡のことである。この鏡は 「赤烏元年五月二五日丙牛造作明竟百凍清正銅服者君侯子孫寿万年」 (『甲斐考古』岡崎敬助氏、解読) [赤烏元年五月二十五日ひのえうまの日に清明な鏡をつくり、銅を百度鍛えられた]
この鏡をもつこの鳥居塚古墳は三珠町の字上野原に数基あった内の一基で3号墳と呼ばれているもので、かっては直系十八米余、高さ三米の規模であったという。割石小石積竪穴式石室「長さ2メートル余、高さ1メートル 、幅1、2メートル」と推定される。 石室の内部壁面には赤色顔料塗布の痕跡が認められたという。 赤烏元年の鏡の他に「倣製内行花紋鏡」や石室内からは土師式土器や、鉄刀・剣、滑石製臼玉も出土したという (『古墳辞典』大塚初重氏・小林三郎氏著) 山梨県内の主な古墳について調べて見る。、
山梨県の古墳群(参考『史蹟名勝天然記念物調査報告』第八号/昭和十年刊)
上向山古墳群 右左口村(単位 センチメートル) ・ 円墳七基 高 3,640 直径 10,920 武具。玉類。土器。
◎金沢古墳群 金沢集落 古墳十五基 天神山古墳 米倉山南麓 前方後円墳(主軸の方向 南北) (主軸の長 132,00 ) (主軸の長 67,00 ) (後円部の高 10,00 ) 後円部の頂上南よりに御崎神社の小石祠があった。 (前方部の長 5,00 ) (クビレ部の径 8,00 ) 前方部の小石祠…天神社・石尊社があった。 (前方部先端頂径 16,00 ) (前方部の長 50,00 ) 幅約3,50 長約54,00 の池があった (前方先端底径 29,00 ) (前方頂点径 10,00 ) (前方高 7,00 )
と伝わる。また金沢は清浄の地であれば馬を乗り いれることは禁じていたとも伝わる。
古文書…甲斐国大開向山土木毘古王懿徳天皇甲午八月十四日御卒向山縣大宮山宮本日奏葬 祟神天皇八辛卯年二月國祭以宮殿御造営 佐久神御號 後向山土木毘古御改葬向山縣内土佛築山土墳廟築 解説……向山縣=右左口村向山付近。土佛築山=天神山。南東を佛句原と呼ぶ。天和三年頃まで金沢を佛句又は佛供と呼んでいた。
第2号墳(丸山) 円墳 高 2,00 底径 7,00 周 20,00
第3号墳(ジョ-レン塚) 円墳 高 3,00 不明 出土品不明
第4号墳(藤塚)稲荷社の境内 円墳 高 4、50 底径 22,00
古文書…孝照天皇三十一年丙甲御卒去苗敷山御葬諏訪大明神祀後向山縣米藏山遷祀藤塚諏訪大明神 養老三年(719)三月十七日 解説……土木毘古王の子、日向岩連彦の后室藤巻姫の墳墓であるという。
◎米倉山古墳群(十八基) 第1号墳(小平沢古墳)(前方後円墳(主軸の方向 南北) (後円部の高 5,10 ) (主軸の長 55,00 ) (後円部の頂点径 6,00 ) (前方部の長 11,00 ) (後円基底径 不明 ) (前方高 2,10 ) (クビレ部の高 不明 ) (前方部先端頂径 3,60 ) (クビレ部の基底部 不明 ) (前方先端底径 不明
第2号墳 下向山小字女沢 前方後円墳 (主軸の方向 東北) (後円部の高 2,00 ) 小平沢古墳の西に連続 (主軸の長 46,00 ) (後円部の頂点径 不明 ) (前方部の長 17,70 ) (後円基底径 不明 ) (前方高 不明 ) (クビレ部の高 不明 ) (前方部先端頂径 不明 ) (クビレ部の基底部11,00 ) (前方先端底径 14,00 )
◎東山古墳群(十数基) かんかん塚(円墳 基底周36,00 高1,50 ) 左衛門塚 (円墳 基底周32,00 高2,20 ) 杯塚 (円墳 基底周36,00 高1,50 ) 右衛門塚 (円墳 基底周42,00 高3,20 ) 鍋絃塚 (円墳 基底周 9,00 高1,00 ) むじな塚 (円墳 基底周14,50 不明 ) (石槨 高 1,12 奥行 約4,00 ) 五味塚 東(円墳 基底周36,00 高1,40 ) 碑文 毀則崇敬則祥 西(円墳 基底周36,00 高1,40 ) 後代者其勿忘 副葬品 上向山古墳…直刀。曲玉。管玉。 金沢古墳 …直刀。柄頭。轡。杏葉。金環。 水晶切子玉。管玉。小玉。提瓶。曲玉。 米倉山古墳…不明。
東山古墳 …丸山塚-直刀。剣身。斧頭。鉄鎌。鉄鏃。鏡。石剣。 …銚子塚-直刀。剣身。斧頭。鉄鎌。勾玉。管玉。車輪石。 石剣。貝輪。石製品。鏡。小玉。 …大丸山-直刀。剣身。斧頭。大形タガネ。小形タガネ。鉄鋸。釿。鎌。 カンナ。 鉄鏃。短甲。鏡。勾玉。管玉。小玉。石枕(二人併用)
◎銚子塚古墳(『古墳辞典』) 所在地…山梨県東八代郡中道町下曽根字山本 (笛吹川左岸の曽根丘陵の北麓に位置する) 形状 …主軸全長-172,00 後円部径-88,00 高-13,00 前方部幅-66,00 高-8,00 石室 …割石小石積。竪穴式石室。割竹形木棺。 内法長-6,500 幅-9,00 高-1,200 石室遺物… 内行花文鏡(1)。 三角縁神人車馬鏡(1) -(山県車塚古墳、群馬県三本木古墳出土鏡と同笵。) 倣製面文帯神獣鏡(1) 倣製三角縁神獣鏡(1) 黽龍鏡(1) 水晶製勾玉(4) 硬玉製勾玉(1) 碧玉製勾玉(1) 碧玉製管玉(150) 車輪石(5) 石剣(6) 杵形石製品(2) 刀(4) 剣(3) 鉄斧(3) 鉄鍬片(1) 貝輪(1)
◎大丸山古墳(『古墳辞典』) 所在地…山梨県東八代郡中道町下向山字東山 (笛吹川左岸の曽根丘陵の東北端に位置する) 形状 …全長-50,00 後円部径-12,00 高-12,00 前方部幅-14,00 自然地形を利用。 石室 …割石小石積。竪穴式石室。組合石棺状の二重構造。 内法-2,20 幅約0,80 深-0,52 石室遺物…上部-鉄刀。 剣。 刀子。 鍬。 斧。 手斧。 のみ。 たがね。 鋸。 短甲。 鑓カンナ。 下部-遺骸(二体分)。 石枕。 玉類。 三角縁獣文帯三神三獣鏡(1) 画文帯神獣鏡(1) 変形四獣鏡(1) 直刀(3) 剣(9) 鉄鍬(3 鉄製鍬先(7) ………この項は『山梨県史蹟名勝天然記念物調査報告5』 由来伝説(『山梨県史蹟名勝天然記念物調査報告5) 往古この附近を向山縣桑原格字と称して向徳天祥寺の遺跡もあり、 保安二年(1121)八月二十五日天祥寺住桑部理道筆天祥寺 録記に曰く、 天穂日命の裔、気利茂登由、孝昭天皇七十年(紀元前406)九月四日卒、 向山縣桑原格字葬る。
◎大塚古墳(『山梨県史蹟名勝天然記念物調査報告5) 所在地…山梨県豊富村字大鳥居記小字字山平第四千二百五十六番地 形状 …後円部高-9.00 周囲-142,00 前方接続部幅-23,00 (推定) 長-22,00 前方部先端の高-1,50 石室 …長-2,50~80 幅-0,45~50 (人骨なし) 石室遺物 朱。 冑(槨外) 短甲。 挂甲片 直刀(8) 鉄剣(5)。 鉄鉾。 鉄鏃。 鑿。 円筒埴輪(400以上) 解説 …昭和二年に農夫が馬首一個(埴輪)を発掘したというが放置して不明となる。長野県下高井郡金鎧古墳と同類か。
この古墳に関する資料は多くあり、今後追加して公開していく。特に馬具や馬の埴輪などに関する古墳を抜粋して、甲斐の勅旨牧(御牧)との関連を探っていくこととする。
古墳の説明(『古墳辞典』)
▽前期古墳 三世紀~四世紀。丘陵尾根上・台地縁辺など低地を見下ろすような地形に立地し、前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・円墳・方墳などの種類が認められる。自然地形を利用して造られている。墳丘には葺石、袖部には石垣状の列石が廻らされる場合もある。 内部構造は割竹形木棺・組合せ式木棺とそれを包む竪穴式石室が存在する。前期古墳中でも年代が新しくなると粘土槨がある。 副葬品の基本的な組み合わせは、鏡(後漢・三国時代の魏晋鏡、後半には国産のものもある)・玉・刀剣・などの鉄製の武器や農工具・鍬形石・車輪石・石釧
▽中期古墳 一般的には西暦五世紀代の古墳。方墳や円墳が増加する。前方後円墳は巨大化して造り出しや陪塚が出現する。粘土槨が普及して船形石棺や長持形石棺が採用される。鏡・玉・刀剣は減少して甲冑などの大量副葬、鉄鏈など鉄素材が増加する。 五世紀後半には中国南朝系統の画文帯神獣鏡や倣製鏡・滑石製模造品も増加する。朝鮮半島から伝えられた工芸技術による装身具・武器・馬具が流行する。乗馬の風習から金銅装飾馬具が顕著の現れる。
▽後期古墳 西暦六世紀~七世紀代の古墳。後期古墳の特徴は群集墳と須恵器の生産が普及し、副葬品の鉄製農機具の減少、馬具の出土品の増加が顕著になる。内部構造としては横穴式石室が多様化する。大化二年(646)の「大化薄葬令」は皇族・王族・上級官人たちの造墓について細かい規定をする。
▼円墳…古墳各時代を通じて造られる。
▼前方後円墳…江戸時代に蒲生君平が名付ける。日本独特の墳形である。前期古墳は自然地形の利用が多く、後円部に比して前方部の幅が狭い。後円部直径に比して前方部の長さがやや長い傾向がある。時代が進むにつれて前方部が後円部の規模を凌駕するようになる。
▼方墳…………一般的には正方形であるが、長方墳や矩形墳の形状もある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月16日 19時45分56秒
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