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2019年05月31日
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カテゴリ:日本と戦争

新羅征討 三韓征伐は後人の捏造か(一)

   

『異説日本史』 第20巻 戦争篇 上

   昭和7年刊 著作者 雄山閣編集局 発行者 長坂金雄 一部加筆

        

神功皇后の新羅征討、即ち所謂三韓征伐に就いては、朕に本叢書女性篇上の「紳功皇后」の條下に詳細なる研究を詔介して置いた。よって本篇に於いては、ただ三韓征伐が捏造せる説話なるべしという津田左右吉氏の説を掲げるに止める。

 先づ古事記傳ふるところの新羅征討の次第を記すに、次の如くである。今便宜上仮名混じりの文に改めで置く。

 その太后息長帯(おほながたらし)日売命は、常時(そのかみ)神帰(よ)りたまへりき。かれ天皇筑紫之詞志比の宮にましまして、熊曾の國を平らげたまはむとせし時に、天皇御琴を控(ひか)して、建内宿祢大臣沙庭(さには)に居て、神の命を請ひまつりき。

 ここに太后神がかりして、言教え覚(さと)したまひつらく、

「西の方に國あり。金銀(こがねしろがね)をはじめして、

目の耀(かが)く種々(くさぐさ)の珍しき寶、その國に多なるを。

吾今その國を帰(と)せたまはむ」

と詔りたまひき。

こゝに天皇答へ白したまはく、

「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、

國(くに)は見えず、唯大海のみこそあれ」

と白して、詐(いつわ)りせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控(ひ)きたまはず、黙(もだ)して座しき。ここにその神大(いた)く忿(いか)らして、詔りたまひしく

「およそこの天ノ下は、汝(いまし)の知らべき國にあらず、

汝は一道(ひとみち)に向ひたまへ。」(中略)

とのりたまひき。云々

かれ備に教へ覚したまへる如くして、軍(いくさ)を整へ、御船を負ひて渡りき。こゝに順風(おいかぜ)盛りに吹きて、御船浪のまにまにゆきつ。かれ その御船の波、新羅の國に押し謄りて、既に國半ばまで到りき。ここにその国主畏(かしこ)ぢ惶(かしこ)みて奏しけらく、

  「今よりゆくさき、天皇の命のまにまに御馬甘(みまかひ)として、

年の毎に船雙(あつ)めて、船腹乾さず。天地のむた、

退(や)む事無く仕へまつらむ」

とまをしき。かれ是を以て、新羅国をば御馬甘(みまかひ)と定めたまひき。百済ノ国をば、渡ノ屯家(わたのみやけ)と定めたまひき。

  墨江の大神の荒御霊を、国守ります神と鎮め祭りて、還り渡りましき。

 

と、日本書紀の記載もほぼ之と一致して居るが、両署を通じての此の物語の主なる要素は大略左の五ケ條と為すこと加出来る。

 (一)新羅征討の起源が、熊襲征伐の計劃せられてゐる際であったこと。それが神の教であること。

 (二)新羅が金銀珍宝の国とせられ、征討の動機をこゝに置いてあること。

 (三)新羅の国のあるといふことが人に知られていなかったこと。

 (四)皇后の親征により、新羅王が降服して長く調貢を怠らないと誓ったこと。其の国を御馬甘(御馬

飼)と定められたといふこと。

 (五)新羅と同時に百済も帰服したこと。

 

然して日本書紀に於いては、

(一)の意味が一層強くせられてゐて、新羅が服属すれば熊襲も自然に平定するといふ神の敦になって居り、根本問題は新羅よりも寧ろ熊襲にあるやうになってゐる。

(三)に就いても外征の軍を出すことに決めてから、また人を海上に出して、西の方に国があるかどうかを看させられたといふ記事がある。

(四)の親征の場合に於いて、新羅王の降伏は、皇后がまだ舟にゐられて上陸もせられない以前の事としてゐるが、其の後上陸して都城へ進まれたらしく思へる。

(五)に関しては、百済・高麗の二国が自ら我軍の営外に来て降伏したとしてある。

 

 以上は古事記並びに日本書紀に記載せられたる、新羅征討の概要であるが、これに対して岸田左右吉氏は、その著「古事記及び日本書紀の新研究」のうち一に、厖大(ぼうだい)なゐ研究を発表せられ、所謂三韓征伐は、よしんば新説征討の事宜はあるにせよ、これを神功皇后と結びつけ國都を陥れる如くに傳ふるは、全く後人の仮託に非るなき歟を疑って居られる。以下氏の説くところを、極めて簡単に紹介して置かう。詳細に関しては前掲の書によって考究せられんことを望む。

 先に記した五ケ條に亙る古事記の記載、並びに日本書紀の記事に対し、氏はその一々に疑問を抱かれ    てゐる。よって氏の疑問をも、五ケ條に分って掲記しよう。

 

(一)

古事記では新羅征討の問題が、熊襲征伐の計画の際に起ったといふのみで、日本書紀の如く熊襲の平定そのことと関係あるやうには説明せられてゐない。ところが書紀でも新羅が降伏した後になって、若しくはその結果として、熊襲の降服したやうな話はまるでないから、その處が甚だ不思議である。つまり最初の問題の結末がついてゐない。根本の問題が解決せられずして消えてしまってゐる。

(二)

海外に國があるといふ明白な神教があるにも拘らず、叉それを奉じて外征のことを決せられたに拘らず、海の外に國があるかどうかを看せられたと云ふのも奇怪な話である。

 この二ケ條は後人の附け加へたもので、物語の原形には無かったのであらう。古事記には此等の点に於いて、筋が大体徹ってはいるけれども、ただ熊襲征討が有耶無耶に消えてしまってゐることは、書紀と同様なので、此点になほ疑問が存する。歴史的事賞の記載としては、甚だ怪しむべきことではなからうか。

只書記より、古事記の方が原形に近いといふことだけは明かであらう。

(三)

新羅が賓の国であるといふ話についても、古事記には神託の條に「金銀をはじめて目をかがやく種々の珍寶、其の國にはある、」とあり、書記には「寶國」とも「眼炎之金銀彩色、多在其國、」とあり、また降伏の條には、「寶金銀彩色及綾羅縑絹、載于八十艘船、令従官軍」と見える。ところが、外国は大抵の場合に金銀の國、寶の國として書紀には記されているので、新羅に限ってのことでもなく、叉この物語のみのことでもない。一体海外を金銀珍賓の国とするのは、樂浪地方に交通して支那の工部品を輸入していたツクシ人以来の考へであらうが、ヤマトの朝廷の外國観が、それから直接に継承されたかどうかは疑はしい。百済は帯方の故地を領有して其の地の支那人を臣民とし、叉或る点まで其の文化を継承したと想像せられる如く、ヤマト人の目に映じた百済は、早くから珍賓の国であったかも知れないが、新羅が初からそれと同様に見なされてゐたかどうかは疑問である。

(四)

次に皇后の御親征である炉、第一に注意すべきは、この話に地理がまるで無いことである。何處まで舟で行って何處から上陸せられたか、それから何の道をどうして進軍せられたか、それが話の上に少しも現れて来ないのである。事賞譚としては甚だ奇怪なることと云はなければならぬ。

 たゞ古事記、日本書紀の文面から漠然と想像をすると、國都附近まで舟で押し寄せられたやうにも見えるが、若しそうだとすると、新設の都城は今の慶州であるから、其の東海岸、例へば今の梁浦牟浦などの方面か、連日灣やかに舟を寄せられたと云ふのであらう。ところが東海岸は一帯の長汀であって、大軍を上陸せしめるやうな舟つき場はなく、また此の處から都城へ行くには山を越さなければならない。

実際の遠征軍ならば、そんなところに舟を着ける筈はない。次に蔚山灣も風波の荒いところで、これまた上陸地点にはならない。蔚山灣は上陸地として或は可能かも知れぬ。が、これに就いては別に考ふべきことがある。それは外でもない、歴史的事実の明かに判る時代の新羅に對する進軍路、若しくは我軍と新羅との衝突地が何時でも今の梁山方面であったこと子のる。慶州の東海岸や迎日灣は勿論、蔚山灣から兵を進めたことすらない。

 勿論これは加羅に根拠が出来てゐた時の話であるが、全体、新羅遠征と云ふやうなことが、若し行はれたとすれば、それは半島に何の根拠もなく、或は何の因緑もなくして企てられた筈はないのである。さうして加羅は地理上我が国と最も近い處であるのみならす、三百余年も楽浪帯方通ひのツクシ人の舟の停泊地として我国民とは密接の交渉があったのであり、また歴史的事実の明白に知られる時代になってからの新羅との衝突は、皆加羅に置かれた任那日本府の勢力の維持の為であるから、若しこの物語のやうな新羅遠征が、歴史的事件として見るべきものであるならば、加説はそれに何等かの闘係があった筈である。然るに此の物語に加羅の名の全く現れないのは甚だ奇怪なることゝ言はねばならぬ。

 要するに、此の物語の進軍略が前に想像したやうなものであるならば、それは事賞としてあるべからざることである。叉この物語に於て、新羅を御馬飼と定めたといふのはこの国を卑しんだ国名であって、雄略記八年の條に、高麗軍が新羅に駐屯して新羅人を典馬(ウマカヒ)とす、とあるのが、日本人の思想で構造したものであるのと同様に、これ亦事実として考ふべきことではない。

 次には新羅王が降伏して永久に朝貢すると云ふ誓をしたといふことであるが、新羅が我国に威厭せられたことが事実であるとすれば、何等かの形式に於いて其の服従の意志を表示したであらうから、貢物を上るといふやうな事もあったであらう。併し此の物語が、遠征の動機とせられてゐる珍寶の話と承応するものであるならば、其の意味は上文に提出して置いた珍賓問題の解釈せられてからでなくては判りかねる。 

叉書紀には新羅入貢の記事がこれから後にも現れてゐて、任那滅亡の後も同様であり、古事記の允恭天皇の巻にも、調貢使金波鎮漢紀武の名さへ見えてゐるが、其等が一々事実を記したものでないことも考へなければならない。                               

(五)

次には百済が同時に帰服したと云ふ話であるが、百済が近肖古王の時から一面東晋に朝貢しつつ――面我国に依頼し――或は我国を利用して――ゐたことは事実である。但しそれが降服と同時であったとは答へられない。多少の隔りが其の間に無ければならぬ。

神功紀四十六年の條が、百済が始めて我国に使を出さうとして、貞淳国に来たが、海路遠く交通困難と聞いて、一時引返すことにしたといふ記事がある。此の事の賞実否別問題として、百済がそれよりも前に、新羅と同時に帰服したといふのは、書紀に於いては此の記事と矛盾する。

 是も亦神功皇后の「新羅征服物語」と百済帰服の説話が別の時期に、別人の手によって作られたため、詳しく云ふと、「百済帰服物語」が後から作り加へられたためであって、書紀は不用竟にもそれを結びつけたのである。また高麗も同時に帰服した如く書いてある書紀の説は、云ふまでもなく事賞ではない。高句麗は我国が百済を保護し初めた後、廣開王が三九八年頃に濊(江原道地方の住民)を服属さぜるまでは、新羅と接触せず、叉百済と高句麗とは互に敵國であるから、かう云ふことの起る筈がない。実際、高句麗が我国と敵対の地位に立ってゐたことは、疑ひのないところである。高麗・百済二国王が親ら営外に来て帰服したといふに至っては、勿論例の具体的に事柄を述べるに要するお話の形式に過ぎない。それ故此等の日本書紀の記載は、古事記に見えるやうな話をもととして、更にそれを潤色したものであると云はなければならぬ。

 






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最終更新日  2021年04月16日 19時20分26秒
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