2294282 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月31日
XML
カテゴリ:日本と戦争

新羅征討 三韓征伐は後人の捏造か(二)

   

『異説日本史』 第20巻 戦争篇 上

   昭和7年刊 著作者 雄山閣編集局 発行者 長坂金雄 一部加筆

 

 

 こう考へて来ると、此の物語に於ける日本書紀の記載には、後人の添加したところが頗る多いことと、古事記は物語の原形により近いものであることが判るけれど、それとて歴史的事実を語ってはゐないのである。それならば、其處にどれだけの事実の痕跡があるかといふことが問題であるが、それに就いては、物語を離れて全く別の方面から考へて見なければならない。

 我が軍が新羅を威厭(けいえん 嫌がる)したことの最も古い事実を記した確かな史料は、「廣開土王」の碑文であるが、これによると、四世紀の最後の十年間に、我が軍が大いに新羅を威厭してゐたことが知られる。

 次に百済が我国に帰向(きこう ある方向へ進む)したのは、我が國の勢力が百済に知られてゐたために相違なく、そしてそれは、我が軍が新羅と戦って之を破ったからであらう。

 百済が我国に保護を得ようとしたのは、近肖吉王(三七五年没)の時であることは百済の史料によって知られる。それ故その時期は、遅くとも三七五年以前でなくてはならない。更にもう一歩進めて云へは、それは神功紀四十六年の條に見える甲子の年、即ち三六四年であったかも知れない。

 かう考へて来ると、我が軍が初めて新羅を威厭したのは三六四年、若しくはそれより少し前のことらしい。何れにしても四世紀前半に、ヤマト朝廷が筑紫の北半を統一したとすれば、ほぼ三七〇年前後にかういふことが行はれたとするのは、當時の大勢と一致する。

 以上は零碎(れいさい こまぎれ)なる史料から推測し得た新羅征服の歴史的事実であるが、これを神功皇后の遠征物語に対照すると、対韓経略の初期に於て、我國が一時新羅を厭服したことは、物語に含まれてゐる事実の面影である。さうしてその時期が、実際応神朝の頃であったことは、百済の近肖吉王の時代から推定してほぼ承認することが出来よう。近肖吉王(クンチョゴワン)が応神天皇と同時代であるといふ古事記の記載は、それだけでは歴史的事実として受取ることはむづかしいが、宋書倭国傳より考へると、大体に於て間違ひのないことが判る。

 右に述べた如く、此の物語に於ては幾らかの歴史的事實の面影が見られるとして、それは如何にして此の物語となってあらわれたのであろうか。古事記の物語に事実と認むべきことが無くして、全体の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが、全然物語に見えないこと、事実としては最初の戦の後、絶えず交戦があったらしいのに、それが応長以後の物語に全くあらはれてゐないこと、是等のことを考へると、これは事実の記録又は伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい。進軍路の曖昧なることも、この故であって、海からすぐに都城に進まれたやうに見えるのは、ただ國の征伐と云ふ漠然たる概念から作られた話汀からであらう。

 かく考察し来れば、此の物語の大筋を為してゐる皇后の親征といふことも問題となる。上に試みた研究の結果によれば、皇后の御行動として語られてゐる、此の物語の説話は、何れも事実として認め難いものである。歴史的事実の明白に知られる時代になって、一度も韓地に對する天皇の親征といふことが無かったといふ事実も考へなければならない。

 なほ、日本書紀の紀年に於いて、紳功皇后の御在位が恰度魏の時代に當り、特に普書起居注に倭女王貢献の記事のある泰始二年の三月後に崩ぜられたことになってゐるのは、書紀の編者が神功皇后を卑弥呼に擬したことを示すものであらう。卑弥呼は女王として記されてゐるが、ヤマ卜の朝廷では昔から女帝が無かったから、皇后を以てそれに擬したのも怪しむに足らぬ。神功皇后の親征が事実であるかどうかは、此の黙をも賢慮して考ふべきであらう。

 以上掲ぐるところ、岸田左右吉氏が研究の大要であるが、かくの如く所謂三韓征伐の史実を疑はれたる後、氏は次の如き結論を下されてゐる。曰く、

 

然らば此の物語は何のために作られたかといふに、それは韓地経略の起源を説くためであったと見る 外はない。ただ加羅や百済の服属の由来を説いた話がなく、新羅に對する征討譚のみがあるのは、一見不思議のやうであるが、これは後にクマソやエミシに対する物語の例によっても知られる如く、

 武力を用ひる話でなくては、上代人には興味がないのに、加羅も百済も我が保護国であり、我と親しい国であり、軍を出してそれを伐ったことがないから、さう云ふ話を作る因縁がなく、さうして事実上敵国であって、絶えず兵を交へてゐる新羅にはそれが最も適切だからであらう。だから此の物語に於いても、百済が自ら進んで我国に帰服したやうに書いてある。併し加羅と百済とに対する物語の無いのは、物足りない感じがあるので書紀の垂仁紀に加羅の、『神功紀』に百済の服属の話があるのは、其の缺陷(けっかん 欠陥)を補ふために、後人によって作り足されたものであらう。さうして其等の話に於いても、二国を友邦とし、新羅を敵国視する伝統的感情が明かにあらはれてゐるのを見るがよい。

と、神功皇后の御親征そのものを疑はれる岸田氏の説は、まことに在来の史書に対して一大叛旗を飜した如き感を抱かしめるが、氏の説くところ理路整然、注目に値するものがある。なお三韓の同時に降服せるや否やに就いては、吉田東伍博士も疑を持たれてゐるから、簡単に記して置く。倒叙日本史上古篇に曰く、

 按ずるに、新羅・百済・高麗の三国、同時に降服したるやにも思はるゝことあれど、書紀の文を熟読し て、古事記に參照するに、宣は一時にあらず云云。

 按するに、古事記

「是以新羅国者、為御馬甘、百済国者渡屯家」

とあるを、書紀には

「本朝遺斯摩(しま) 宿禰於卓淳(とくじゅ)国、

其王末錦(まきむかし)旱岐謂之曰、甲子年、百済久氏(くて)等、

来我土曰、百済王聞東方日本(やまと)国、遺臣等朝貢、幸教以海路、

吾謂久氏曰、我亦聞東有貴国(かしこきくに)、云々」

とあり。其明白に甲子とあるは、之を百済肖古の時に求め得て、応神帝六十二年なるを知るべし。書紀の一處には、百済も高麗も、神功皇后新羅に臨ませたまへる曰く、同時に風を望みて帰附したる様に録しあれど今採らず。按するに、舊設、高句麗も他の諸韓と同く、本朝に内属すと云ふは非なり。国史に照らすに、高句麗の征略属附、明文なし。古事記、唯新羅・百済の官家たるを録し、之を彼の南史の倭王六国(新羅、百済、任那、加羅、秦韓、慕韓)高句麗なく、北史の倭傳

「新羅、百済、皆以倭為大国、並称之、恒通使往来」

とあるに参照せば、断じて高句麗の朝貢は、官家内属の例に異なるを知るべし。と。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月16日 19時19分54秒
コメント(0) | コメントを書く
[日本と戦争] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X