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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月02日
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  縁故節と島原の子守歌 その一

 

序に変えて

私は民謡の世界のことは全くの無知ですが、子供の頃からの住む北巨摩郡(現在は北杜市)の盆踊りなどには必ず唄われていた記憶があります。
 レコ-ドでなく老若男女の夜空に消え入るような、どこか空しい曲が、今でも脳裏に焼き付いています。
 はるか前ですが、テレビ番組の中で、「島原の子守歌」が流れていました。おや、この曲は「縁故節」ではないのか、と不思議に思いました。その時は、忙しいのに感けていましたが、久しぶりに地域職豊かな『中央線』をひろげて見ると、植松逸聖翁の「縁故節四方山話」が目に留まりました。

 民謡や民話は全国津々浦々、同じような曲や歌詞が有るといわれています。民話や伝承それに地域行事でさえも、その類似性は数多く見受けられます。しかしその発生過程については、明らかに盗作や真似作と思われるものもあります。「島原の子守唄」はこうした意味合いからは、大きな関心があります。
 作られた時期は明らかに山梨の縁故節のほうが早く第二次世界大戦を経て、「島原の子守唄」が作られたのですから、明らかに「模倣性」が認められます。
 模倣の経過については別記してありますから参考にしていただくとして、私見としては、この両者の間に挟まっている戦争が起因していて、戦争に駆り出された人々は戦地で一緒に戦い信頼関係を深め、お互いの国の民謡や民話が多くの兵士の慰めになったと考えられます。おそらく宮崎康平氏も、こうした関係者から何かの折に山梨の縁故節を聞いて島原子守唄の製作に役立てたと思います。
 私が最も気になったのが、メロディーの類似性だけではなくて、歌詞にも及んでいます。

   特に、

  「島原の子守歌」は邪馬台国の研究者でもある宮崎康平氏の作詞作曲です。 時代の移り進み、一部編曲に古関祐而氏も関わり、本家の「縁故節」より「島原の子守唄」の方が有名になり、「縁故節」の制作者たちは、必死に「縁故節」が先で、「島原の子守唄」は盗作であると訴えましたが、宮崎康平氏は逆に「縁故節」の方が「島原の子守唄」の盗作であるとして、すでに著作権を設定していました。
 その後「島原の子守唄」は観光や産業に果たす役割も大きく、現在ホ-ムペ-ジで索引すると、その数は多く「縁故節」を圧倒しています。
 民話や伝説それに民謡などは、各地に同じようなものがあり、どこが先かは分からないものです。民謡でも一つの唄に、その地方の地唄の一部を加えて地域の人に伝承されていくことは、ごく自然の成り行きだと思われます。
 しかし「縁故節」と「島原の子守唄」はそんな昔の話ではないのです。
 そこで、今回「縁故節」や山梨県の民謡を愛して止まない韮崎市の植松逸聖翁の奮戦ぶりを中心に、その他の資料を絡めて当時を偲んでみることにしました。「縁故節」の復活を願いながら。

… 参考資料…

 植松逸聖著 『中央線』「第8号」
 (一部の語句を訂正) 郷土研究  1972年(昭和47)刊行

 この唄は、「縁故節」の中でも一番代表的な唄で、誰しもが「縁故節」を唄う時、一番先に喉をついて出るのがこの歌詞である。
 「縁故節」は、数多い甲州民謡のうちでも最右翼の方であって、何回もラジオやテレビで放送され、レコ-ドにもなって、各レコ-ド会社から発売されており、現在発行されている民謡集の中にも必ず掲載されていて、全国的に有名であることは、今更言う迄もないがことだが、たまたまそのメロデ-が「島原の子守唄」によく似ているところから、「縁故節」は島原の子守歌の盗作ではないかとか、
九州の「隠れキリシタン」が、甲州に移り住んで、「島原の子守唄」を教えたので、それが「縁故節」のメロデ-のもとになったとか、色々な風説が流れ、またそれを肯定するような書物も現れて、一時は「島原の子守唄」説にすっかり惑わされた状態になった。これは最近九州旅行を終えて帰って来た人達が、旅行中のバスの中で聞いた、ガイドの「島原の子守唄」を聞いて、あまりにも「縁故節」に似ているところから自分の耳を疑い、不思議に思って色々憶測をめぐらした結果から、そんな事になったことゝ思うが、「縁故節」は生粋の甲州生まれで北巨摩育ちで、「島原の子守唄」の盗作でも模作でも無い。
 「島原の子守唄」こそ戦後の作品であって、「縁故節」とは年代が遙に違うことを先ずもって明記して、これから「縁故節」がどうして発生し、発展して来たか、これにまつわる四方山の話を交ぜながら書いて見たいと思う。

大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブ-ムが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。
 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコ-ド会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。
  こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたまゝで、僅かに、
「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。
 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。
 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしてである。初代の白鳳会快調に就任した人は、小屋忠子氏であった。小屋氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄もうたう風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違はれたというか、本人は斗酒尚辞せずという剛腹な人で、カイゼル髭をたくわんた立派な紳士であった。
 幹事長は、韮崎郵便局艮の柳本経武氏、とても世話好きの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小屋会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄もうたうし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に十地の人情風俗を織りこんでうたい、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。

 昔から北巨摩地方で、

  サアサえぐえぐ ジャガタラ芋はえぐいね 
  中で青いのは なおえぐい 

シヨンガイナー

と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロデーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。
 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。
 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違はれたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓につゞいての存在てあったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。其時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同じものを二ケ月連続していくことはなかった。而も、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいうお若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古はきびしかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。
 そんな芸妓を、小屋氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄わせて新しい民謡をつくり出そうと努力しておられた。
 一応唄の形が出来あがったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。
 うたい始めに「アリヤセーコリヤセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも縁で添うとも」と唄に人って同じメロデーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。「柳沢はいやだよ」と変化して「アリヤセーコリヤセ」と前の噺子言葉で結んでいる。あとの「女が木を切る」から、シヨンガイナー迄同じメロデーの繰返しである。
 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、 起から愛の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。
始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロデーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。
 「五度上げるとはどうゆうことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロデーが決定したのである。
 「踊りもあることだから」と言はれて、四拍子に作譜することを命ぜられた。

 扱、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサ・えぐえぐ」と唄ったのを、「サアサえんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当字をした。それが何時の問にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。
 毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小屋氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ-ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。

 縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがる。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変賑やかな人で自分のことを「おらあ降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。
 以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。
 これが縁故節の、全国へ名乗りをあげた第一歩であった。
 それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。
 二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。

其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして帰る予定だったが、突然ビグターレコードから電話かかゝて来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。
 その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を間いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。
 早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変ほめてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。其后ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。かえすがえすも残念なことであった。
 昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。
 それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。

  「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」

 と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。

歌詞「柳沢いやだよ」

 柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い地区である。
 徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を欲しいまゝにした柳沢吉保の先祖の地である。
 柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である。兵部丞信俊にいたる迄居を構えておったといわれている。
 宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生組釆を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。
 其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にわやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は二つあるようである。第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかっにので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄にたくしたものだというし、第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労すろところであるからという。第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。
 昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来に。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるベきか、削除すべきかということで、柳沢の人達の意見を間いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。






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最終更新日  2021年04月16日 19時13分31秒
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