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2019年06月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

松亭身延紀行(身延詣で)その一

   『甲斐資料集成』作者 不詳

昭和八年十一月 広瀬廣一・赤岡重樹 校訂 一部加筆

 

三月二十八日

 

萬延となん、元(号)改められし年の後の弥生、(紙切れて不明箇所あり)」

我が宗祖、日蓮大士の御霊鎮まります、甲斐の國身延山に詣でんと、同志のもの三人にて、江戸を出立、まづ「堀の内の妙法寺」なる、祖師堂に詣でて、行路の無難を祈り、日頃より懇なる人々、この所まで送り来りて、馬の寿司辛きとなんいへる茶店にて、人々酒酌かはし、袖を分かちぬ。この人々とは、

瓜生金鵞、梅の本鶯斉、伊勢屋徳次郎、浅草の源八なり、それより同志三人になりて、その日は上高井戸の駅、武蔵屋というに宿る。

 

三月二十九日

朝の風冷やかなり、この宿より箯を雇いて国領宿というに到る、これより玉川へ半里ほどありとて鮎漁案内の家あり、しれより布田、五ケ宿、また上下石原宿などを過ぎて、建場に休む、是より前左の方に、富士及び諸山遠景、左富士の雪、旭に映して気色云はん方なし、下車返しを過て、

  車返しとは、むかし奥州の秀衡尊位の弥陀あり、霞験新なりと聞て、

鎌倉の右幕府これを乞ふ、止ことを得すかの佛像を、

車に載て鎌倉に送りしに、此に至ってその車さらに動かず、

因てそのよしを鎌倉に告げ、奥州へ引き返したり、

 

ということあり、こゝなりや、土人に詳しく問ざりしぞ遺憾なりき、

  

それより府中に至る、「六所の宮」に詣つ、物舊神寂て、資に当国の舊社なり、門に和の七福人の額を架く、これ猿田彦、巌嶋辨天、稲荷、淡嶋明神、三輪明神、蛭子神、春日明神たり、画工は、野々山包弘圖とあり、大和絵にやあらん、御前左の方に鼓楼あり、また左右巌組をたゝみ獅子を置く、また左右石の玉垣ありて、左には呉竹右には榊を植えたり、また大なる樅ありて、注連を引わたせるは神木にや、神殿は朱塗りにて、屋根には金色の巴の紋をつけたり、夫より下藪村といふ所に到る、左の方に大なる華表ありて、天満宮の額をかゝけ、石燈龍一基その内に樹り。

  

松梅在傍祠神之威 金燈献前幅錄攸祈

  日月無私顧忠之寃 光霊垂後孝感攸帰

 

となん彫付たり、それより青柳という所に休み、玉川の津にかゝる、この川は名にしむふ、武蔵の大河にして、河原広きこと凡四五町、堤は此春や経営(工事)したりけん、塵朶を置き、土を積むこと幾重か知らず、その下にとなん唱る籠(蛇駕籠)あり、石を詰て並べ揃えぬ、その数量るべからす、その気色また言語に尽くし難し、津は急流といへども、この頃は幅十間ばかり、それよりさきもまた河原にて、大小の真砂、路水は幾派にか流れて、風景よし、向ふに岡ありて、松杉たてり、土人に問えどその名を知らずといふ、それより八王子驛に出る、こゝに榜示の杭ありて、江川太郎左衛門が支配する所の横山駅とあり、里人に問に、むかし八王子と唱へしは、この裏道にて、ここは往昔より「横山駅」といふ、しかるに八王子は衰へゆき、此所をもて、都て八王子と呼となん、横山駅三町の末を、八日市町といふ、横山は四の日、八日市は八の日立となり、當駅油屋三郎右衛門といふ旅店に宿る。

 

三月晦日 

朝曇たり、これより「大戸の観音」に參詣せんと、ここにて籠を雇ひ立ち出る、横に入りて「上野原村」を過く、甲州街道の事は別なり、これより都て、左右樹立茂き在郷の道なり、右の方に杉本森然と樹て、華表富士社と書す、此邊すべて一二丁の上り下りなり、「大真木村建場」に至る、夫より「大戸観音堂」あり、茅葺にて鐘楼あり、夫より「案内峠」といふにかゝる、このむらより一人の老婆出て、道の案内をする、この所左右屈曲の山路にて、渓水流れ景色よしといへども、先刻より雨降り出し、雲覆いて、東西を知らず、「案内村」出づ、ここよりもまた案内の者を出べき今日は然るらず、使い者云いき、是より「ちぎら峠」といふにかかる、登ることおよそ一里計り、絶頂に茶店あるべきなれと、雨故に出です、これよりまた下り道、「松大盡の林」といへるあり、赤松教千本実に目を驚せり、そこを下りて建場あり、傍に「月読大明神」の社石階なり、左右玉垣丸き石にて畳む、夫より小原宿へ出、ここにて使いをかへす、八王子より此宿にて峠を越ること五里半となんいふ、次なる「黒瀬宿」に出、ここより上野原宿へのなりとて、角屋といへる酒店の角より左へいり、雨中を漂るに、すべて山路にして.歩行難く直下せは凡一丁もやあらんと思ふに、岩石を切割たる如きの道あり、元より足の踏所なく、ただ巌を傳ひて下る、ここに一派の急流ありて「桂川」と号く、船は向の岸にあり、こなたに立て呼とも、更に答るものなし、

 

岩たゝみのほり下りてわたし守

     呼ぶ聲侘びし桂川邊に

  

ややありて、津守やうやうに出来り、向いに渡す、少し行て、また津あり、先の川と同じなりとぞ、かくて「諏訪村」というに至れば、ここに「古郷神社」と額に掛けたる社あり、境川というに至る、ここに「口留番所」と唱えるあり、但し甲州へ入るには、女は改めず、出るは改め、手形なくては通せずとなん、それより「上野原宿」に至り、若松屋市郎左衛門という、旅店に宿る、夜にかけて益々大雨となる。

 






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最終更新日  2021年04月16日 19時04分19秒
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