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実力者 小林中 『新人国記』 朝日新聞社刊 昭和38年 一部加筆
甲斐路。山美しく、流れも清い。が、どういうのか、印象はちょっと暗かった。 縁が深すぎるのか。それとも、この長い露空のせいか。 旅のさきざき、甲斐路の史跡は、どこでも武田のかなしい興亡を語り続ける。それでつい、旅人の心まで暗くなるのであろうか。 旅の先々で「今日の代表的甲州人は」と、訪ねて歩いた。まず小林中の名を誰でもあげた。
東京・渋谷の小林邸をおとずれる。トビラの厚い、古風な洋館である。どういうのか、ちょっと重い感じは、この家のあるじの、異様にするどい目にもあった。 小休中というひとの肖像・見取図、ないしは伝説、偶像の類が、いろいろある。 実力者……その幅広い支配力と政治手腕とを、たとえば 「池田内閣を背景として、財界はいまコバチュウ時代だ」 とか 「日本のカジをとる中枢指導部のひとりだ」 とか、そんなふうに論者はいう。 黒幕……たしかに、あまり大舞台には立たないのである。 戦中は富国徴兵保険の社長。 戦後まもなく東急社長を一年足らず。 二十六年から開銀総裁。一期半。 その後インドネシア賠償交渉の政府代表。以外は、ずっと浪人だ。いまも遊んでいて、しかもちゃんと、カゲの影響力は衰えない。たとえば、昨今の財界でいえば、目航会長や同友会代表幹事、国鉄総裁などの人事について。 「実力」といい「影響力」といい、どこまでがホントでどのへんから伝説になるのかは明らかではない。実際の小林中は 「人間の顔、もう、みるのもごめんだ」。 恐ろしくぶっきらぼうにいい、荒々しい笑い声をたてるだけだ。六十四歳。 また、 野人……押出しは威厳に満ち、時に、レセプションなどで外人賓客との握手のタイミングを狂わせたりはするが、そんなことは、気にもとめない。 読み……面倒な議論は大きらい。「アア」、「ウン」ぐらいな返事をしていたかと思うと、最後に「ズバッ」と結論だけをいう。周到ですばやい読み。これはタイミングもピタリ、狂いがない。 億劫がり……国鉄総裁になるとき、注文をつけた。 「政府や政党の圧力は受付けません」。 これも立派だけれど、 「朝寝坊だから、午前十一時まえには出勤しません」。 六年間、朝寝を通したという。 そういう、どこか並みの規格から外れたところなら、初対面でもわかる。 番町会……戦前、三十歳代から、郷誠之助ら財界トップ級のロビーにいた。戦後派経営者とは決定的に違う、育ち、骨の太さだ。 帝人疑獄……昭和元年、番町会を襲ったこの事件、実は政治的策謀による「空中楼閣」だったことが、あとでわかり、全員無罪となる。が当初、拷問にもひとしい強迫と誘いに負けて、先輩、友人の偽りの自白が続いた。抵抗する小休の抑留は長引き、ヘトヘトになって、独房で遺言をつづる。夫人にあてて、生れたばかりの長男のことを 「この子が人きくなったら、友人をよく選ぶよう、いいきかせてほしい……」 戦後、財界人のゴルフが復活しても、かなり長いこと、小休は、それを手にしなかった。「帝人」で逮捕されたのが、ちょうど朝ゴルフに出かけようとした時だった。だからだろうか。
もっとさかのぼると、
早大生のころ……インパネスに白絹を首にまいて、兜町や神楽坂あたりを歩いていた。
甲府中学のころ……雑記「実業之日本」をとって読んでいた。
生れ……中巨摩郡白根町源。甲州財閥の開祖に若尾逸平という人物があった。その生れが、同じ白根町の在家塚。雨アルプスの山裾にひろがる、荒涼無残なヤセ地である。
むろん、字義どおりの「財閥」ではなくて、甲州から出た財界人一群の総称。ちょっと暗い感じの風土と人と、甲州財閥ほぼ百年の系譜が、当代一の実力者・小林中の背中にある。
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最終更新日
2021年04月16日 18時53分30秒
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