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2019年06月06日
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カテゴリ:甲府の歴史文学

たんぽぽの(わた) 甲府城由来

 

市川康氏著 『中央線』1990秋 第38

       発行人 山寺 仁太郎氏 編集人 不二牧 駿氏

                          一部加筆

 

物心ついた頃我が家は甲府城の前にあった。だからそこは我らの遊び場であり習練の場であり、友であり師であり揺り篭であった。それは二階の裏窓から真正面に聳え立って見える。(いばら)(つた)に覆われた石垣だけの城だった。右手は天主台で高くて左側へ順に低くつらなっていた。もっともこれは内堀の中だけの事をいうのであって、昔の外堀をふくめた御城内というのはもうその頃は市街地になってしまって、内堀の一部と高い石垣の中だけが使いにくい場所として、利用されずに残されていたのである。

 記録(山梨県郷土更年表)では、「明治二十二年城内にて始めて午砲を発射」とあり、正午を知らせるドンも始めはドン山(愛宕山)ではなくて、此処の天主台で発射したものと思われる。しかし煙火の打ち上げには格好の場所だったので、市制祭とか折々の祭り日には盛大な花火大会が催されて、二階の窓から良く見えて楽しかった。

 そもそも甲府城の石組がどこの城よりも高くて立派なのは、基盤の一条小山という岩山の上に築かれたからで、本丸の地面には今も岩盤の一部が露出しているのを見ても明白である。もっともこの城は「人は石垣、人は城」の信玄さんは知らなかった。武田流の軍学からすれば小さい城などは不要だったのだ。膝元まで攻め込まれてからではどうにもならないからだ。

 しかし人はそれぞれに考え方が違うからこの甲府城というのも、天正十三年(一五八五)甲斐を入手した徳川家康が此処にあった一蓮寺を倉田(現在地)へ移し、家臣平岩親吉に命じて縄張りさせたのに始まるが、しかし当初は小規模なものだったようである。越えて天正十九年(一五九一)加勝光泰にこの地を与えて築城を命じ、地城を拡張して正の木稲荷と長足寺(現光沢寺)と現在地へ移して工事を始めたが、翌文禄三年光泰は朝鮮出兵などの為、財政窮乏し翌二年釜山にて病没。この年十一月浅野長政が城主となり、丸四年の歳月を経て、文禄三年(一五九四)ようやく一応の工事を完成したのである。記録によれば「塩部村の一部が城郭内となり無人となる」と、いう処を見れば現在我らが見るよりはよほど大規模なものにする予定だったのかも知れない。

 但し当時の社会情勢は未だ流動的で、幕府の意向で何時国替になるやも知れず、折角苦心して築いてもその城が終生子孫の物になるという保証はなかったから、勢いあまり金もかけられず形式だけのものとなり、現在各地に見られる名城というのとは一寸見劣りのするのも、亦止むを得ないところである。それは石垣の積み方を見れば明白で、ノミを使って石を切ってあるのは(かど)と上の面だけで、真中の部分はすべて野積みである。しかしながらであるからには築城時より百三十余年のは、本丸二の丸を始め各曲輪曲輪にはそれぞれの屋形や建造物があり、大手や山の手には壮大で厳めしい楼門を築き、本丸始め各曲輪の(かど)には矢倉を設け、それらを繋ぐ土塀は六尺巾の徳塀として無数の銃眼を具えた。壮麗にして威風堂々たる構えであったろう。

 もっともこの城は文録年間という戦国時代過ぎての建造だから、実戦的でなくて容姿にだけ重きを置いたのではなかろうか。遠目には角々の石垣には反りをもたせて見事には見えるが、その石積みの裾には厚く盛り土をして崩壊を防止してある如く見えるのは、何とも実戦的ではなくて何かほかに特別の必要があっての事だろうか。実際、あの石垣は実に上り易くて幼児の我らは鍛治曲輪(南側広場)から、真上の本丸まで一気に駆け上がる競争をして毎日楽しんだものだった。子供らが容易に上れる石垣では実戦の時には如何なものだろうか。兎も角一度も戦争に使われなかったこの城は、以来三百年間は幕府権限の象徴として、その後は無用の長物として甲府市の中心に鎮座している。

 もっともこんな風に考える者は私の外にほんの少数のものだけだ。ほとんどの人は小諸なる古城のほとりなんていって(小諸ではないな、甲府だな)懐古趣味で滅びゆくものの美しさを懐かしく思い、甚だしいのは一度も造られたことのない天守閣を建造するのだといって、その募金運動に狂奔している人さえ居るほどだ。天主台の立っている場所は前述の通り一条小山という岩山の頂で、その上に積み上げたもので、本丸からも十メートル近くあり、稲荷曲輪(東側)からは百メートルもあろうかと思うほどの高さである。上り口は西側でそこから南と東の両方へ上る石段があって中心部は空洞になっている。あれにもし五層で白亜の天守閣を築いたとしたら甲府盆地は一望の内にあり、又盆地中のどこからも眺められて、それは見事なものだろう。では何故この城に天守閣が建てなかったのかといえば、それには因縁とでも言うべき言い伝えがあったのをどなたも御存じないであろう。

 吾らがこの城を遊び場にしていたのは大正の初期で、その頃城の石垣の所々が毎年のように崩れたのだが、今見る細かい石で今風に積み上げられてある部分がそれだ。あれでは城壁としての風格からは零だが、今はもう戦には用のない城だからあんなにしたのだろう。

その工事場の小父さん達の話では昔から、この城は本丸を中心にしてしばしば崩れたのだという。そこに私という妙にひねこびた少年が居って、根堀り、葉掘り聞き出した所によると、昔から天守閣を建てようとすると必ずどこかに崩壊が起こったという、因縁付きの城だったというのだ。これはきっと何かの祟りだろうというので、八幡神社を護り神として毎年お払いの行事を励行して居ったという。

湧出する温泉

 長ずるに及んで私も「祟る」という様な愚昧の話に疑問を感じて、折りに触れて何か原因になる事柄はないかと古老の人々に尋ね歩いた結果、大昔一条小山が城になる以前この岩山の北側(現在甲府駅構内)を湯田と称して田圃だったという。水源は山の北面から湧出する温泉だというのである。

尚古老の言を借りれば、築城に際して此処の一連寺をその地名と其に現在地へ移したから、今も湯田の一連寺だというのだそうだ。成る程これならば納得がゆく。そし一条小山は愛宕山の続きで途中の窪地(現JRの線路のある場所)は、築城の際に岩石を切り出してその跡へ富士川の水をひいて掘にした所だという。愛宕町へ上る三年坂というのはその折の掘削の名残だともいう。

愛宕山は噴火山 

愛宕山はかなり新しい噴火山だから、温泉が湧いても不思議はない。現在甲府駅前の温泉がこれを証明している。温泉の湧き出ている上へ石垣を積みあげたのだから、本丸の北側はいつも石が濡れていた。何にしても田圃加出来るほどの湧水量だったというから、それが石垣の内側に溜まったのでは時折崩れるのが道理だ。明治の頃この場を引いて浴場を経営したのが例の海州こと小田切謙明の海州温泉と、甲府中学(現一高)にその頃あった寄宿舎という所の風呂だった。お城の利用変遷については追い追い述べるが、舞鶴公園と呼ばれる様になってから甲府中学校と公園との境で、石垣のないところは太い焼杭の垣根で仕切られていたが、発育の悪い私は頭も小さかったから、この杭の間をするりと抜けて、中学のお兄いさん達の処へ遊びに行ったものだ。髭の生えている大きなお兄いさんもいたりして、この風呂へ入れてもらった事もあった。ヌルヌルして入り心持の良い湯だったのを憶えている。

 

甲府城は上甚こと上野屋村松甚三氏の所有だった

それはさておき甲府城が上甚こと上野屋村松甚三氏の所有だった、といったら皆様驚かれるだろうがこれは事実だ。慶応四年(一八六八)一月官軍の先鋒と称して乗り込んで来た、皇太后宮少進高松実村及び家司小沢一仙こと雅楽之肋らが、錦の御旗を押立てて堂々と入城したのだか、後に家司雅楽之肋なる男が何やら神楽の雅楽之肋に酷似している所から其身許が怪しくなって遁走。後捕えられて断罪にされた所謂「偽公卿事件」だが、実村の身元については不正のない事が判明したので、最初に入城した実村が所有者という事になったのだ。但し、維新直後の物情騒然たる中で彼の命を狙う者などいて、実村は前記上甚に後事を託して一時姿を隠していたのだ。

越えて明治四年(一八七一)に新政府による国民の資産の申告という事があって、この城についても委託されていた上甚が、行方不明の人の名も出せず、といって申告しない訳にもいかず、巳かを得ず自己の名で届けたという次第だったという。しかし物が物だけに個人でこれを維持管理するのは、乞食が馬をもらったよりも至難の業だから、県へ寄付したのだという。

後年上甚の店頭で色白で小柄の見知らぬ老人が煙草などをふかしていたのを、確かに見たと父や兄達がいっていたが。これがはたして実村であったか否かは定かではない。

 甲府城 明治以後の城の活用

明治以後城の一部が活用されたのは明治八年(一八七五)からである。先ず同年一月。城内御米蔵跡に「甲府監獄建設」とあるのがそれだ。場所は現在の平和通り西側で駅前から西武デパートの向う側迄の地域で、内堀と外堀の間の広い場所で米倉だの馬場などのあった淋しい処だったそうである。古い地図ではこの辺りの外堀というのは、その昔水門町と称し、現在の甲府共立病院の川がその跡で、旧橘町児童公園から県立図書館の東を流れる川(現在は暗渠)がその続きである。この辺りなお南下して今の甲府警察署前あたりで東側に移り、日銀甲府支店辺りで左折東進して桜町南端まで達していた。この辺りの堀は大手通り(錦町)へ出入りする大手門へ渡る橋があって特に広く水量も豊かであり、南側を片羽町と称し、夏期には屋形船などを浮かべて夕涼みを楽しんだとは古老の話である。

 この堀、正しくは二の堀はその東端で又々左折北上して、城の内堀まで連なって居ったのだが、(現在僅かに残っている)。同八年十二月この縦の部分を埋め立てて市街地としたのが桜町通りである。

  二の堀 武家屋敷 商人 

二の堀は一の堀より水位が低く石垣も裾の部分だけだった、と思われるのはこの堀添いの道を上手小路と呼んでいたのでもわかる。昔はおそらくこの土手は桜並木ではなかったろうか、と勝手に想像する。そしてこの塀を渡って城内への人口は八日町通りのつき当り(風月堂のところ)だけで、そこの橋を渡れば木戸番小屋と御目附屋敷が厳めしく控えている。所謂御城内で百姓町人は出入りさせないことになっていた。しかし御役宅御勤番を始め直参小普請等々多数の住宅はあっても、商店というものは一軒もなかったので、物売りはかなり自由に出入り出来たと言われている。その第一が衣食住関係つまり呉服太物及び小間物商とその番頭手代丁稚である。勿論それは出入りを許された特定の商人だけだったが、外には刀剣類又は履物や魚介野菜類等の食料品を商う者、大工左官建具の職人ぐらいの者だった。

 旧幕府時代の社会情勢を今説明するのは至難の業で、まして今の若者らに理解されるのは到底無理だろうが。昔は士農工商といって武士と称する奴らだけが、苗字帯刀御免という特権階級で威張っていて、この連中は年中朝臣で食っていたのだ。勿論何かの仕事はしていたろうが少なくとも生産には従事していない奴らだったから、それを苗字がなくて只名前だけの農工商の衆が、養って居ったのだからこれは引き合わない制度だ。それでその中でも農というのは地主農民のことで、その下に小作人、小米、水呑というのが居って、実際に(しぼ)られるのはこの中だ。それは百姓と菜種は搾るだけ絞るだけ良いと言われたほどだった。又商というのは札差とする米穀商兼金融業者、又は衣類と材木と酒屋だが、これとても且那というのは奥座敷に居って、実際にこき使われたのは番頭や杜氏以下手代・丁稚鼻たれ小僧の類である。

 封建制度というものは酷いもので、大名の子は大名に、将軍の子は馬鹿でもチョンでも将軍になれる。直参の子は直参に家老の子は家老に与力の子は与力になれるが、同心で十五俵二人扶持は如何に努力しても同心以上にはなれない。が、しかし彼らとても士族である事に変わりないからその気位だけは高かった。だが商人はそこが付け目で、小腰を屈め揉み手をしながら恐る恐る近付いて、御機嫌を伺いながら法外の値段で売り付けたのだという。特に勤番士や御直参御旗本ともなれば高給取りで、例えば千石は今の米価は一㎏五百円とすれば一俵六十㎏で三万円、一石は二俵半で七万五千円だから七千五百万円になる。三千石、五千石ともなれば大変なものだ。与力の百石取級でも年俸七百五十万円、月額六十二万円五千円也の給料取だから庶民とは聊か違う。

しかし労せずして得る収入だから勢い浪費も多く、それに余り金銭にこだわる奴は武士の風上にも置けぬなどといって、恥とする気風すらあったからいくら取っても出銭ばかり多くて、手もとは案外苦しかったらしい。それで毎年新調せねばならん衣類や調度品は次の年には古着などとして払い下げるのが普通だったという。そこでまたまた儲かるのが商人で、古老の話では、甲府には古着屋が多く、特に緑町は両側総て古着屋だったという。だから百姓町人で苗字ない奴は長年努力をして多少工面が良くなれは、これらの古着や古手の品を買うのが念願だったという。

 

 市街地に

外堀が桜町となった頃から順次これらの二の堀も埋められて市街地となって、片羽町は相生町となり錦町裏通り(元平和通り)橘町辺りの堀は埋め切れずに、窪地が長く続いていて、その中をチョロチョロ水が思い切り悪く流れていたのを、私も幼い頃に見て憶えている。その頃は町も表通りだけで特に橘町などという所は以前監獄があったというので、人通りなどほとんどない淋しい処だったという。

明治九年一月城内錦町に裁判所新築。同年五月県病院開設(現在中央公園)同六月五日勧業試験場設立(古名屋ホテル付近か)。七月二十六日師範学校開始(現甲府署の辺か)。翌十年十一月十四日県庁落成(現在圧旧市役所のある場所、入口は南側)というように、内堀の中以外は、なしくずしに市街地に変っていったのである。

私の記憶にある県庁は周囲を白ペンキ塗の柵を廻らした中に、かなり大きな水溜まりがあって蒲の穂などが乱立していたが、ここは旧追手役宅跡だから、その辺りが前庭だったと思う。庁舎は木造二階建の藤村式(藤村建築というのは彼がアメリカの写真を大工に見せて、倶に考案した外観だけ洋風の使いづらい建物)。記録には、「錦町元大手役宅地に県庁を新築する、敷地二千三百九十九坪、洋風なり」とある。「洋風なり」が笑わせる。

 以上は城中といっても外堀の中だったが、内堀の一部が潰されたのは明治三十年の十月からだ。

「十日甲府城北部清水曲輪を鉄道院に譲り甲府駅を置く」

とあり、この時から内堀の水が汚れ始めたのである。大体この堀の水源は藤川と相川の水を北側の二の堀から清水曲輪をめぐる内堀へと誘導して、深々と碧々と湛えてあった、この水を東西両側の堀へ落としていったのだから、清水曲輪を潰されて石塚もなく平らにされては、水源を失った堀の水はたちまち腐って醜い物となったのだ。そしてその西側の堀(駅前通り)の中に甲府中学があったのは前に述べた。この清水曲輪は今の身延線のプラットホームのある辺りで、そこは内も外も堀を廻らせていて山手門もあり、東にはお花畑(薬草園)もある最も大事な場所で、中には清水御蔵という備蓄米の倉庫などもあった。

これは天保騒動の後同元年(一八三八)飢饉に備えて名取作右衛門、窪田藤兵衛らの(きょ)金五千両を以って用意されたものである。そして二十数年後の維新の際には大いに活用されて、以来空物となって後三十年にして曲輪と共に其姿を消す運命となったのだ。






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最終更新日  2021年04月16日 17時39分10秒
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