2293671 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年06月06日
XML

たんぽぽの絮(わた) 甲府城由来(2)

 

市川康氏著 『中央線』1990秋 第38

       発行人 山寺 仁太郎氏 編集人 不二牧 駿氏

                          一部加筆

 堀を埋められた城が如何に不様なものであるかは今跨線橋の上から皆様が御覧になる通りであるが、それにも増して奇妙なのは甲府税務署裏からの入口である。あんな所から出入りする城が何処にあろうか。あそこは鍛冶曲輪といって武器や武具を製造修理又は貯蔵して置く場所で、城の奥倉ともいう処だ。明治四五年三月東宮殿下(大正天皇)が近衛師団の演習見学の為入県の際、宿舎が稲荷曲輪の機山館だった為、大手門の方は甲府中学で出られないから、あんな処へ橋を架けて出口を造ったのだ。そして其時殿下の御乗物が人力車だったから、上り下りが石段では困るので、くの字形のスロープを稲荷曲輪から下の曲輪まで付けたのだ。現存する坂道はその八十年前の遺物だ。

 御見学当日の三月二十八日、民衆は沿道に出て遥拝せよというので老若男女の市民は、残らず道路の両側に正座して御待ち申し上げるなかを、行列は十数台の人力車を連ねて下って来た。その時「アア、来た来た」といった男の人が不敬罪だというので巡査に拘束された後、「シーッ」という声がして一同最敬礼をしてたが、私は幼児だったから唯一人顔を上げて見ていた。殿下には黄色い兵隊服で兵隊帽をかぶって正面を向いたなりで行かれたが、次の黒服の胸へ勲章を沢山ぶら下げた軍人さんが怖い顔で睨みつけて通った。

後年、「天皇の夏帽子」という小説で、大正天皇という方は大頭だったから、誰もお下がりの夏帽子を拝領出来なかったというのを読んだが。その時は「それ程大頭だなア」という記憶はない。只明治陛下程偉そうではないなと思ったりした。

 その時の御宿舎に充てられた機山館というのは、明治四十年に建てられた迎賓館で、木造角型トンガリ屋根で床の高い建物だった。元来あそこは正ノ木稲荷(現太田町公園内)を祭ってあった場所だったから稲荷曲輪というのだ。扨ここで私は築城の秘密というのを語らねばならん。それは何処の城にも必ず有る筈の落城の際の逃げ道、つまり開かずの扉だ。籠城も今はこれ迄という時、女子供と其に城主と側近数名だけがそこから逃げるのだ。それには此処はひと度落ち延びて再起を図るという旨い口実があったんだ。この様な時に主君を落ち延びさせる為に家来は死を賭してたたかって城と運命を倶にするというのだから、どう考えても家臣家来という奴は割りが悪い。そんな古い考えが太平洋戦争の頃まで信じられていて、ガダルカナル、アッツ、サイパン、テニヤンから沖縄迄、島の住民総てを巻き込んでの悲劇となったのだ。特に厭きれたのはサイパンでの最後の日を迎えた時に、幹部だけの救援隊や潜水艦の派遣を打電したが敵さんの包囲網固く、ついに果せなんだというのである。これらは皆弱い動物の習性で、誰かが食べられている間に逃げてしまえという狡猾発想にもとづくものである。

 ところで甲府城の逃げ道というのは先ず本丸の東北隅で天守台の北、今は坂になっているがあれは大正末期公園にしてから造った下り口で、本来は高い石垣で区切られていた処だ。私には幼時あの石垣を掻き上がって本丸へ這い上がった記憶がいる。享保十二年(一七二七)十二月の大火で、「本丸以下諸櫓門以下悉く焼失して壮観を失なった」、とある如く、本来城というものは石積みの角々には櫓があり、それらを繋ぐ土塀がグルッと巡っていて、前記の石垣の上には出口があって、これが第一の開かずの扉だ。万一の時はここから梯子を下げて降りたのだ。そしてその石垣の段差は七メートル以上もあったろうか。それを降りると迷路の如き石段があって稲荷曲輪北の古い杉の林へと下っていた。(今は古い汽車などが置いてある)その杉林の東端が高い櫓だ。今はその台石だけ残っている。

その櫓と稲荷曲輪を廻る土塀との間の古い石垣が、ポッカリ二間半幅の空間がある。今は瓦斯会社の方から坂道で昇り降り出来るが、以前(犬正始め迄)は切り立った岩山の状態で簡単に行き来の出来る場所ではなかった。即ち此処に第二の開かずの扉があったのだ。

 幸か不幸かこの城は、以来一度も実戦にその役目を果たすことなく、従ってこれら秘密の逃げ道も開かずの扉も、ついに本来の使われ方をせずに終わったのは、まことに目出度き限りである。

   

 人でも物でも国でも、生まれてすぐ滅びるのもあり、永く隆盛を保っているのもあり、色々の災害に遇うのもある。即ち命の然ら使むるなりこれを天命、という訳さ。これは城といえどもまったく例外ではない。

 信長の安安土城は彼の死と共に跡かたもなく消え、大阪城はひとたび炎上して徳川の手で建替えられた。熊本城は生まれて三百年後に西郷隆盛らに攻められて籠城の際、加藤清正の言い伝えにより、壁に塗り込めてあった甘藷を掘り出して、食してみたが不味かったという。

天草の乱の原城は今すでに耕地となって石一つ残ってはいない。そのなかで白鷺城、鳥城はほぼ原型を止めて観光用となり、江戸城は最も広大な城として三百年の齢を保った後、天皇の居宅として引き継がれ、国民精神の拠り処となっている。中には二重橋前に正座して深々と叩頭礼拝する人さえある。あんなのを朕が忠良の臣民というのだろうが、明治陛下という方は諸事節約を旨とされる方だったから、本来なら別の地を(ぼく)して広大な王城を構える可きだったのを、徳川の古手で良いよといってあれに決められたのだ。有り難いということはああいうのをいう可きだ。

 この外城は世界中数限りなくある。特に北欧やスイスの美しい観光名所として人々を楽しませて居る。あれは寒い国だから崩壊が少ないのと、常に修理しているから永く保っていられるのだ。

中近東や中南米やらのものは暑い国だから崩壊が早い。シルクロード添の楼蘭外様々の城は、今は人口が極めて希薄の上に風砂の害が酷くてすでに消え去ろうとしている。然し中国のものは都市全部が城だから、これは現在も最も盛大に生き生きと使われているのだ。それは厚さ何メートルもの土塀で出来ている、周囲数手口十数キロメートルにも及ぶ壮大なもので、都市をその中に取り入れてあるからこれは水攻めや兵糧攻めでは無理だ。取り囲む攻撃軍の方が先に草臥れるだろう。顧見て我が国の城は城主一家とその家臣及び家族を一郭に居住させるだけで、戦力のない庶民は城下町に居っても守ってもらえない。城の廻り少々窪めて堀などという水溜まりを造って能事終われり、としたのだ。「広い広い国」と「狭い狭い国」とでは、人の考えもこんなに違うのだ。まして万里の長城というに至っては又何をか況んやである。然しながら兵器の異状なる進歩の前に城はまったく廃物となり遺物と化した。今後は努力して城を築く者は一人も居らんだろう。

 そこで甲府城だが、この城へ来た人のほとんどがあまり幸運とはいえない者ばかりだ。先ず加藤・浅野だが、苦心築城して落成したのが文禄三年(一五九四)。二十余年後の元和四年(一六一八 )には中納言忠長の治める所となったが居住せず、しかも代官松平守成、同重成、鳥居成次らも城代名儀だから、実務は武川衆、津全衆の青木信女、曲淵吉漬、同前之丞らが努めた事になっている。

大納言となった忠長が乱心というので蟄居、改易が寛永九年(一八三二)だから差し引き十四年足らず。これがこの城のケチの付き始めで以来城番時代となり。二十九年後の寛文元年(一六六一)から徳川綱重が城主となった。

この頃から城下の町もやや整い始めたのだが、城の方も幕府による普請が行われ、角々の櫓や砦、館、倉庫も大方整備されたのだ。この代価金二万両と記録されて寛文四年十一月に完了した。

 さて居住する人間が増えると城も町も生活廃水の処理が悩みの種となるのは今も昔も変わらない。そこで元禄元年(一六元六)五月に出来だのが三の堀と称する下水道である。つまり濁川だ(この工事は山口堂堂が請け負ったと伝えられている)。今残っているのは桜町南端と相生町(片羽町)東端の角から南下(今は暗渠)、すぐ折れて東進して緑橋から魚町尻を進み、心月院の南東で屈折して深町尻を東進する所所謂濁川だ。昔はこの深排出からさらに北上して激安寺酉裏から、今の中銀東支店の辺りから白山神社、瑞泉寺の東(あそこは高い崖だった)。そこから左折西進して近習町上迄、つまりこれが三の堀と称する下水道である。その内側には近習町、柳町、魚町、穴山町、工町、八日町、伊勢町(山田町)、三日町、連雀町、鍛冶町、桶屋町などの城下町である。

 三の堀の外側にはまず北に境町の御牢内とその組屋敷。東南外に深町組屋敷、片羽町の南に佐渡町(これは金座)、代官町(これは代官手代らが居住)、その西が二十人町組屋敷(これは同心二十人衆が居住)。因に組屋敷というのは今でいう公営住宅だが、同心の給料十五俵二人扶持は今の米価では年俸六十万円だから、よほど抽の下でも取らねば生活出来ない。これでは賄賂を取るなという方が無理である。

さらに北上して百石町というのは百石取りの与力の町だ。与力というのは今の幹部警察官に当たる。その西方はるか相川にそって御小人屋敷となっている。これは今の穴切小学校や穴切幼稚園の辺りになる。御小人屋敷の跡が小学校と幼稚園かといって、お疑いの方は古地図を御覧願いたい。が、御小人というのは矮小の人ではなくて鉄砲足軽のことだ。彼らは合宿生活で、衣食住の保証はあるが給金は小使い程度だ。本来足軽というのは勤務中だけの士族扱いだ、これを士分と称して「其方を士分に取り立てて遣わす」、なんていわれて感激したりしたものだ。しかし実際は常に多くの足軽は雇いきれなくて、隔年毎の参勤交代等の時には臨時雇いがほとんどだったといい、又それらを供給する口入屋もあったという。

 

話を城に戻す。甲府城が最も華やかだったのは綱重入城の寛文元年から、吉里が太和郡山へ移封の享保元年迄の正味六十三年間だ。この開だけが名城と呼ばれるに相応しい唯一の時期だろう。先ず太手山の太鼓橋を渡れば各櫓門を始め角々の櫓から諸役宅(ことご)とく整い。本丸、二の元(武徳殿のある処)には数々の御殿、(いらか)を連ね。特に柳沢時代には二の元の南に新たに広場を増営して、里好みの数寄屋及び庭園なども優雅に設らえられたと伝える。(これは二の丸南の一段低いところ)

 甲府の市街地が一応整備されたのは実にこの柳沢時代からで。柳町と八日町との角に駅(町役人屯所)が設けられ、そこを中心に茶所旅籠などが多く集まって一応町らしくなった。柳沢氏一流の人気取り政策による賦役の軽減で、庶民は一様にそれを善政と謳歌した結果、城の普請なども大いに進展してその結果は目を(みはる)ばかりだったという。もし柳沢氏があのまま居残っていたとしたら、甲府城甲府市ももう少しは増しなものとして現存したであろうが。禍福は糾へるのごとく里移封の三年後の享保十二年一七一七中の柳の増築修せる部分を全部破却せよとの幕府った偶々十二九日夜大久保屋敷本丸以下櫓門悉く焼失壮観を失へり。この時甲府の街も大半記録にあるごとく、これをにこのも唯石垣と化しったのだ。この時の怪火について少々

俯におちない点があるので色々調べて見たが、今となっては何も判らなかった。

 その後は勤番支配の時代に終始して役宅を平地の内堀外に移したり、陣屋を長禅寺前(現富士川小学校)に設けたりして、追々内城は使用されなくなっていった。城主が健在で折々に修理補充や増改築をするのと、そうでなくて勤番支配が唯任期中を事なかれですごすのでは、城のはなつ光彩は大いに相違している。ことにこの城の様に丸焼けの状態で渡されても、跡を引き受けた勤番士としても石段ばかり多い、内堀の中などは、昇り降りが苦労だから敬遠して、役宅は大手山の手元の平地に移して、内堀の中は追々狐狸の棲み家と化していったのではなかろうか。そしてこの勘繰りを立証する事件がその後たちまち起こった。

炎上の年より七年後の享保十九年旧暦十二月の二十四日夜、城内御蔵に賊が侵入して御用金小判甲余計一四二二両五分也を盗み去ったのだ。

 所で御金蔵というのは太鼓橋を渡って大手御門の石垣を右折、鍛治曲輪へと向かうすぐ左手で柳沢増築の高い石垣がやや入り込んだ個所。今でいえばスクランブル交叉点の所の誰も利用しない不思議な歩道橋をくぐって、県民会館の裏を恩賜林記念会館の方へ這入るすぐ左手、今も僅かに敷石だけ残存しているのがそれだ。わたしが少年の頃には崩れかけた白壁の土蔵がその残骸を晒していて、甲府中学の生徒が加賀美一平先生通称『どんぶり』の説教をいただいた処だ。先生は入口の一段高い敷石の上に(たたず)、丸々と肥えたお顔を尚一層ふくらまして、立春のが脱水を呑み込むよう長々御教訓を賜った。当時の中学生諸君らには涙が出るほど懐かしい場所だ。本来ならば彼処迄行くには厳めしい大手門があり、御門番詰め所があ御金蔵入口には木戸があり、周囲の石壇上は渡り櫓で取り囲まれていたであろうから、鼠賊如きの立ち入りは万不可能だったろうが。如何せんこの時は請櫓門悉く焼失して丸裸の状態だったから、渡り櫓なども仮普請のままだったのだろう。

 別の記録によれば、『同夜城内渡り櫓に盗賊侵入、代官山田次右衛門の納金云々』となっており又このため、『札の辻に黄全数十枚をかけて盗人を詮索』となっている。気の毒だったのは勤番士宮崎若狩守成久以下多くの勤番士で、追放過料改易の処罰を受けている。この賊は八年後の寛保三年急に金使いの荒くなった、巨摩郡高畑村(現甲府市)百姓次郎兵衛なる者の仕業と判明し、捕えられて吟味の上同年六月十八日町中引廻しの上山崎にて傑刑に処された。そう言えば旧甲府中学校の正門は木造黒塗りで、大手御門というには些か貧弱なという感じだった。

 この城主不在の城は以後一度も整備されることなく、石垣の茨葛の生い茂るにまかせ灌木の根は年とともに巨石を押し上げて繁りつつ、やがて明治維新を迎えたのである。

その間安政二年(一八五四)十一月四日早朝の大地震は城内各所の石垣を大いに弛ませて益々入を遠ざけつつあったのだ。明治も終わり大正となっても県財政も乏しくて、舞鶴公園の手入れは見送られ勝だったが。第一次世界戦争頃の好景気でぼつぼつ城の修理も始められた頃、石垣の弛緩が頂点に達したのだろうと毎年各所に崩壊が起こり、事の次手に古い石段を花岡岩とセメントを用いて今の姿に改造した。この時、工事はまことに良心的だったのか、未だにさしたる傷みもなく健在だ。

 我ら悪童が盛んに暴れ廻ったのは、その頃で試みに植えたであろう桃の実などを盛んに食べ荒らしたりした。その後はヒマラヤ杉等の庭木類が多く植えられて今の姿となったのだか、昔から今なお健在なのは鍛治曲輪に残る欅の古木三本だけだ。恩賜林記念館横から上る石股上左手の櫓趾の石垣の外れにある榎の古木は、享保の大火のあと鳥が運んで来た種から自然に生えたのだろう。稲荷曲輪裏手の古い杉の林は及々に枯れて、今は児童の遊び場になっている。

                        おわり

 次回からは城を廻る町の様子や出来事、町の移り変わりなどを書くことにしよう。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月16日 08時16分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨歴史文学館作成資料] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X