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2019年06月06日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
明治までの釜無川、御勅使川流域の大水害の記録(周辺被害)
天正十一年 (一五八三) 十一月
 釜無川・笛吹川氾濫
文禄二年  (一五九三)   
 中巨摩郡下大洪水
慶長十四年 (一六〇九) 九月 
 中巨摩郡下大洪水
慶長十九年 (一六一四) 十月 
 中巨摩郡下大洪水
寛永十九年 (一六四二)    
 中巨摩郡下大洪水
元亀一年 (一五七〇)     
 八ケ岳ヲ押シ出シ、塩川釜無ノ両縁ヲ押シ流シ、竜王村ヨリ荒川ヲ突キ抜キ笛吹川ニル、国中ハオヨソ七分通リ、水一面トナル。
天正二年 (一五七四)
○ 八ケ岳崩壊、諸川増水。
文禄二年 (一五九三)
中巨摩郡に洪水
慶長六年 (一六〇一)
韮崎堤防決壊、祖母石村の田畠屋敷が流失
慶長一四年(一六〇九)
出水にて中巨摩郡下被害甚大。
正保一年 (一六四四)
御勅使川氾濫。
正保二年 (一六四五)
御勅使川、笛吹川大出水。
承応二年 (一六五三)
九月御勅使川氾濫。沿岸一帯に多大の被害。
承応三年 (一六五四)
諸川氾濫竜王村信玄堤切込水下の田地おびただしく流失す。
天和一年 (一六八一)
釜無川大氾濫。竜王村地籍堤防決壊、田畑流失大。
貞享四年 (一六八七)
中巨摩郡下被害大。
貞享五年 (一六八八)
九月笛吹、釜無川ともに洪水。堤防決壊、田畠の被害甚大。人畜の死傷多し。
享保七年(一七二二)
笛吹、釜無川各河川洪水あり、堤防決壊甚だしく農作物の被害大。
享保一三年(一七二八)
全県的に大被害あり。
延享四年(一七四七)
八月、御勅使川満水。
宝暦七年(一七五七)
五月、釜無川氾濫。
天明三年(一七八三)
 六月、釜無川氾濫
寛政二年(一七九〇)
釜無川氾濫。
享和三年(一八〇三)
 八月、下円井村甲州道中が釜無川本流となる。
文政一一年(一八四〇)
台風、陰暦八月九日、甲州も全県的に被害。
天保八年(一八三七)
 八月十四日、釜無川大風雨満水。
安政六年(一八五九)
 八月大風雨、釜無川洪水。祖母石村被害甚大。(『韮崎市誌』)
万延一年(一八六〇)
大風雨にて釜無川満水。
元治一年(一八六四)
 前代未聞の大風雨にて云々
明治年間(元年~44年)
明治元年から四十四年までの間に、十八回に及ぶ水害の記録が残っている。なかでも四十年と、四十三年の水害は未曽有のものであった。
明治元年の大水害
四月中より度々之大風雨にて、川々出水所々堤切入多分之損地出来仕候処、猶又七月十八日之強風雨にて、川々満水堤数ケ所切入山崩等にて人家床上まで土砂押入卿貯置候夫食等も押流され難渋之趣相違無御座候。
慶応四年(一八六八)八月十一日
急米を賑貸せられんを鎮撫府に請ふ飢人数、一五七八人
急夫食米御拝借願此米、六三石六六(三十日分)
七月十八日より、大雨出水にて川々満水、堤切入又は山崩等にて人家床上までも土砂押入。
明治二年(一八六九)
釜無川 大水害。
明治三年(一八七〇)
四・七・八月の三回大洪水。
明治八年(一八七五)
十一月二十四日、水害表を内務省に具進する。
明治九年(一八七六)
九月釜無川大水害。(『山梨県史』より)
明治九年九月十八日、雨水暴流。
明治一四年(一八八一)
九月、県下全般大水害。釜無川とくに激甚。
明治一八年(一八八五)
八月の水災で釜無川東西両堤を切り流す。
明治二五年(一八九二)
釜無、御勅使流域被害大。
死者六、家屋破損五六〇。
明治二七年(一八九四)
この年から甲府測候所の気象観測が始まる。
八月、台風。釜無川大洪水。
明治二九年(一八九六)
九月御勅使川、釜無川氾濫。
県下死者  三三人
流失破損  五〇〇余戸
堤防決壊  三二九カ所(八六五五間)
明治三一年(一八九八)
大水害。
県下死者       一七四人
家屋流失・倒壊    四一二戸
田畑流失土砂押込 二、六九五町余
堤防決壊     一、九七ニカ所(五九五、三二三間余)
*北巨摩が最も大。
明治三九年(一九〇六)
梅雨前線豪雨。
明治四〇年(一九〇七)
明治最大の水害。
八月二一日~二八日まで
雨量        三二六ミリ。
死傷者       四二二人
家屋流失全壊  五、七八七戸
田畑流失埋没  六、〇三四町余。
堤防決壊   五四、九一〇カ所。
明治四一年(一九〇八)
県下一円台風被害。盆地南部が甚大。
明治四三年(一九一〇)
八月台風で釜無川堤防決壊。
明治四十年の大水害
明治四十年の大水害は、本県災害史上に残る大災害をもたらしている。
八月二十二日の夜半から降り出した雨は五日間も続き、
甲府 一三五・四ミリ、
石和 四八○・七ミリ、
竜王 三二三・0ミリ、
鰍沢 三〇五・0ミリ
の雨量を記録した。
県下至る所で大小河川が氾濫し、山岳の崩壊もおびただしく、
堤防の破損決壊        七五、〇〇〇カ所
道路の流失・埋没・破損  二七万三、○〇〇箇所にも及んだ。
八月中の総雨量は四八○ミリにも及び、
死者         二三二人
負傷者        一八九人
家屋の全壊    一、二六七戸
半壊       一、七二八戸
破損       四、四二八戸
流失破損     二、一九九戸
田畑の流失、埋没   六〇三町四反歩、
浸水         二〇五町七反歩、
堤防の決壊   五四、九一〇間
堤防破損    三一、九三七間、
山崩れ      三、三五三カ所
笛吹川筋の峡東一帯は特に惨状を極めた。
釜無川も大増水して竜王改修堤防崩壊。
明治四十二年の大水害
明治四十二年の八月十日
八月初旬から連日の豪雨で雨量は六四一ミリにも達したが、降り方はほぼ平均的であったため被害は同四十年災害を下回ったが、強烈なダブルパンチとなった県民の苦しみは想像を絶するものであった。 
四十年には比較的被害が少なかった荒川、塩川筋をはじめ、盆地南部、西郡、富士川筋など水害は全県に及び、釜無川筋では円野、祖母石、竜岡、小井川の各村、笛吹川筋では上曽根、下曽根、稲積の各村、富士川筋では高田、西島、下山村などの被害が大きかった。
また、釜無川堤防の決壊流失。
明治四十四年三月十一日、
山梨県下の皇室御料地二九万八千二百余町歩が恩賜県有財産として下賜
明治四十年、四十一年、四十三年と連続する大災害で疲弊困窮の極に陥った山梨県は、県民大会を開くなどして政府にも治山治水策を始め、御料林の還付など救済策を訴えたのであるが、
明治四十四年三月十一日、山梨県下の皇室御料地二九万八千二百余町歩が恩賜県有財産として下賜されたことは、永遠に県史に残るできごとであった。
明治末にこのような大水害が連続した原因としては、幕府時代には林政の取り締まりが極めてきびしかったが、明治維新以後これがゆるみ、乱伐が横行し、かつての入会御料地は特に荒廃が激しかったためという。
御料林下賜の趣旨も、治山治水の直接担当者自ら森林の経営に当たらせ、合理的経営による収入をもって県財政をうるおし、災害対策に充てさせようというところにあったのである。
大正時代の水害
大正三年(一九一四)
八月台風。
大正一二年(一九二三)
九月豪雨。関東大震災で堤防亀裂し被害を大きくした。
昭和時代の水害
昭和九年(一九三四)
九月、室戸台風。全国的に空前の大被害。本県死者一三人。
 室戸台風
昭和九年(一五三四)
九月二十一日に室戸台風が来襲し、全国で死者行方不明三、〇三六人、家屋の全壊・流失など四、二九八戸にのぼる大きな被害を生じた。
総雨量は三〇八ミリに達し、芦川筋を筆頭に釜無川、御勅使川、富士川など県下の各河川は増水して田畑は泥海と化し、山崩れも各所で発生した。
県下では
死者        三六人
家屋の全半壊   二五六戸
家屋浸水   六、二二〇戸
田畑の流失     八五ヘクタール
冠水       八〇〇ヘクタール
昭和一〇年(一九三五)
九月台風の雨量四一九ミリ。
昭和十年(一九三五)
台風が県下を襲った。御勅使川筋一帯の被害が激甚で、芦安村源村地内の道路橋梁などが流失、有野石従堤及び左岸旭村の虫歯堤百間堤が決壊し、村落の被害が甚だしかった。
昭和二〇年二九四五)
一〇月台風。全県に被害。
昭和二二年(一九四七)
九月カスリーン台風。県南部大被害。被害五億以上。
昭和二三年(一九四八)
九月アイオン台風。県東部が被害大。
昭和二五年(一九五〇)
六月前線豪雨。
昭和三十三年
九月の二十一号、二十二号台風は北巨摩郡下に大きな被害をもたらした。特に武川村を中心に、大武川の増水により中央線、道路は寸断され、堤防の決壊による人家の浸水など惨懐たる状況であった。
昭和三四年(一九五九)
八月台風七号
一〇月台風一五号
昭和四〇年(一九六五)
九月一七日台風二四号により鏡中条橋が流失
昭和四一年(一九六六)
台風二六号
○昭和三十四年の台風七号・十五号災害
昭和三十四年八月十四日の七号台風と、九月二十六日~二十七日の十五号台風(いわゆる伊勢湾台風)は、本県にとっては明治四十年災害以来の大きな災厄をもたらした。
八月十四日午前六時半ころ、駿河湾から富士川河口に上陸した台風は富士川に沿って北上した。最大風速は東南東三三・九m(瞬間最大風速は四三・二m)と甲府気象台開設以来の記録となり、時速七五キロの猛スピードで甲府盆地西部を北上、九時には長野市西方を通り、十時ころには直江津から日本海に抜けた。最大日雨量は一六〇、三ミリに達し、一時問雨量は県南で八〇ミリ、韮崎で四八ミリ、薮の湯で三七ミリ、芦倉で三五ミリ、甲府で一九ミリという激しさで被害は全県下に及び、死者・行方不明九〇人、負傷七九四人、全壊・流失家屋一、九八二戸。この二つの台風による県下の被害額は七号が三一一億二千万円、十五号が八九億二千万円という大きなものであった。
農作物の被害状況をみると、先ず水稲は七号台風により全県的に水田の冠水・流失・埋没が広がり、穂ずれ、葉先枯死などで作柄は不良となった。その後九月上旬まで高温多照の好気象に恵まれたため作柄もやや持ち直したが、そこへまたしても十五号台風の来襲により県下の水稲はほとんどが倒伏し、早生地帯の登熟期の水稲、盆地一帯の出穂後二十日前後の水稲とも大きな被害を受けた。
日川、重川、釜無川など各河川の氾濫により流失・埋没した水田は六三九ヘクタールに達し、特に北巨摩郡の武川村、白州町、韮崎市など米作地帯が被害甚大であった。





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最終更新日  2021年04月15日 17時53分04秒
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