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2019年06月07日
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北杜市武川町の俳人 輿石清泉

 清泉は通称清将といい漢学者輿石用吉の三男として明治四十三年(1910)十月十一日武川村上三吹に生れた。
 父の用吉は黒沢の一木義三郎と共に甲府徽典館に学びその後東京に出てさらに漢学の勉強をした人である。明治の中後期から大正にかけて家塾を開き在郷の子供達に漢学を教えた。子弟には本村内外において活躍した斉木栄春など有名人を輩出させた。このような文学者の家に生まれ育った清泉は幼少のころから父の文学者としての影響力もあり、峡北農学校在学中特に国語を得意とし、長田先生に教えを受け芭蕉の句を見せられて「心理をどの様に感じるか」という問題が出たのがきっかけとなり、俳句への興味を持ち始めた。
 たまたま、知見寺波人(名は文雄)群馬県の㋣組製糸に勤めていた隣近所の俳諧師の進めもあって、峡北農学校を卒業してから「俳譜歳時記」を買って俳道に専念した。「雲母」に投句したのが掲載され、それから「雲母」を購買し始めた。その後は知見寺波人の教えを受けていたが、日華事変の始まった昭和十二年上京し、東京いすゞ自動車に就職し、たまたま会社のクラブ活動の中に俳句部があり、文芸雑誌「のろしの」を発行していた。
 会社の仲間と共に東京日野町長をしていた有山董糸について更に精進しいつも頂点を獲得した。
 戦後は郷里に帰り、農業の傍ら作句を続け、小沢草の王、武藤亜山等の所属している雲母峡北支社に仲間入りした。月並俳句から一歩ぬけ出た現代俳句へと脱皮するべく、その後は小沢草の王が主宰する奥甲斐吟社に所属した。
 昭和二十五年頃たまたま萬体院において武藤亜山が主催して、「ホトトギス」同人の堤俳一佳を招聴して句会が催された。この時参集した俳人は五、六十人であったがその中で次の句が特選にぬけた。
  朝桜、唐獅子に雨つめたけれ
 これからは俳句に対する情熱が加わり続いて、雲母峡北支社の大会が韮崎市の蔵前院において開催され次の句がまた特選にぬけた。
  柿うれて風なき鶉陽の子等と
 俳讃をやっていてこの時ほど感激したことはなかったといっている。
草の王も共に喜んでくれたそうである。
 昭和三十年二月三富貴神社本殿履屋の草書から瓦に葺き替えた記念に「四季雑吟」の額を松吟会の連中が奉献した。選者は長坂町佐藤鳩村、高根村黒沢の兎月庵改耕、小沢草の王が行った。その時の献句は巻軸に選ばれている。
  水こだま池に二月の韻あり
 昭和三十七年飯田蛇第が亡くなってからは小沢草の王と共に石原八束の主宰する「秋」に所属し以後ずっと「秋」に毎月投句している。昭和五十五年十一月発行の「秋」二百号二十周年記念の合同句集に次の句が掲載されている。

  早蝶      輿石清泉

  寒雅一羽ほ泣きつ地に舞へり
  雪しまく天はまったく墨絵たり
  府性に妻は小走り年暮るる
  レタス剥く音パリパリと風邪寵り
  種他に泥の深さをおぼえけり
  池修理連翹しはし縄の中
  日かみなり村でほ遅き田草取り
  早天に何をもとめて蝶高し
  新松子碧空とみに繁りたり
  斑猫や老の身かばふ山の路
  (斑猫=みちおしえ)





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最終更新日  2021年04月14日 15時37分49秒
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