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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月07日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

勝沼五郎館址論証への具体的な方法 

=史実・実否争点のルールの確立を求めて=

日本考古学協会埋文委員 山本寿々男氏著 一部加筆
『甲州人々(じんじん)』昭和51年 ㈱山梨タイムズ社刊
 
最近早稲田大学の柴辻俊六氏は、その論文国人領主小山田氏の武田被官化過程の中において、地方史の観点(いいかえれば郷土史研究)について厳しい論評をされている。例えば小山田氏の認識について、全体的な把握に乏しい極言すれば、甲斐の小山田氏についての認識は、依然『甲斐国志』のそれをあまり出てはいないといえる。とか或は上野晴朗氏の小山田了三氏の引用史料についての信憑性、表現の奇妙さなど、史学研究者からの厳しい論評を受けていることに絡んでである。
 とかく郷土史研究をすすめている人達の中に例えば『甲斐国志』『甲斐国古城跡志』『甲陽軍鑑』等の記述内容における誤謬矛盾というものについての批判、つまり、史料批判するという方法をなさらないで記述そのものについてこう書いてあったのだからこうであるといったパターンを抜けきらない向きが多いのは今後の郷土史研究に非常に気がかりなことである。そのことはよく知っている。こうであるこう書いてあった。だから掘った跡はこのよ
うであるといったシステムである。
おそらくは、例えば中世の城郭はこういう公式であるから当然こういうものはこういう型であるといった、一見妥当のようでその矛盾に気づかないといった風潮を恐れるのである。
今回二ケ年をかけ、用地買収費を入れると一億円以上の巨費を投じ、あらゆるマスコミを動員して大きくPRした、或は行政をそのうず巻の中にまき入れた形の「伝承勝沼五郎館跡の調査」というものを冷静に見直して見た場合、一体それは何であったのか、本当に勝沼五郎館という実名を冠するに値する客観性のあるデーターが土中深く一片たりとも埋没していたのであるのかと問い直して見た場合どれだけの答が得られたのであろうか、論証への具体的な方策について気がついた点を若干交通整理して本誌3号の読者に捧げたい。
 
この際おことわりいたしておかなくてはならないことに伝承という表現であろうか。
筆者は本館跡についでの二、三のか論には常に、この伝承を冠し続けていたのであるが、それもそのはず、史実の実否の実が成立してからこそこの伝承という二字をとりたいと思っているので逐一伝承という二字をつけ得ないが、本論は伝承のという意味にご理解を得たいと思っている。
 
-さて郷土歴史ブームの中に登場する『甲斐国志』、勿論立派な国志であり地誌である。だがしかし『甲斐国志』、或は『甲斐国古城跡志』、『甲陽軍鑑』等のそれを大きく乗りこえたところの歴史を考える眼、つまり視点というものをより広い視野から見直す必要があろうかと考えている。つまり裏を返して見るならば、それらの記述の中における事実矛盾というものが刻明になってきているということについての認識不足なことである。
 すでに具体的については他の小論の中において明らかにしているので重復をさけることにするが、甲斐国志において而り、甲斐国古城跡志において而りであって何によりも土中に埋没している姿において相矛盾も甚だしい面が多々ある。
 考古学という方法を用いての調査とその結果というものは、例えば臨床医学における、人体解剖のそれと同様、切開するということによく似ている。つまり発掘するということは切開して中を見るということであって、若しこの切開手術についての正規、正当な見方というものがなされなければ、答はとんでもない方向にいってしまうだろう。勿論切開した状況を刻明に調べ或は疑うということをしなければなりますまい、これぞ医学であろう。さてで
は一体史実実否への具体的な問いかけのいくつか解剖の立会人としてみることとしよう。
調合の主体者つまり、
責任者は公判『勝沼氏館跡調査概報』を昭和五○年三月三十一一日付で明らかにしさらに担当者上野晴朗氏は「歴史手帖」の昭和五〇年七月号で、勝沼氏館跡発掘の重要性と諸問題として内容を公表した。その後本誌3与において、虚像か実像かというタイトルで原点へのさしもどしを求めて一応の問題点の整理をおこない真理への道を探り、実像の勝沼五郎たらしめるために筆をとったのであり、良識ある県民各層に問いかけたのである。

(一)

先ず館、つまり建物を意味しているのであるから発掘調査の結果から何時代のどういう建物であるということを理解させなくてはならないわけで、こういうものでありましたという鋭得性がなければならないということである。
戦死した場所とか、古戦場という類のものではなく、具体的なもので要求される。しかもA区実測図、B区実測図という名前の単なる石の配岩の平面図だけでは、A区、B区に実在していた年代の違う縄文時代早~中期、或は江戸中期~明治期まで一面で判明するわけもなければ、白紙に何が記載されているのかさっぱりわからず、何を報告したのであろうか。公刊の報告書にしては全くその内容が即解しがたいものであることは残念なことである。
  1.  柴辻俊六
国人領主小山田氏の武田氏被層化過程 古文書研究 九号一九七五年十二月

(二)

発掘したところの調査の概報であるのだから、武田の系図、勝沼氏についてのくだりは一応の参考ではあっても、切開したことをできるだけ平面図に入れ或は、セクション図を挿入するとか、逐一発掘状況が誰にでも読みとれやすいように記述しなければならないの
に全く触れられていないのはどういうわけなのだろう。
②山本寿々雄
山本仮説を破って欲しい現時点でとらえた中世伝承勝沼五郎地の虚像性
 甲斐考古 十一の二 一九七五年

(三)

引用されている資料、つまり甲斐国吉城跡志にしても、甲陽軍鑑にしても史料批判がなされてから信憑性のあるものについて参考として利用されべきかと思うのであるが前半にそのストリ-だてが部分の強調された恰もその通りであるものの如く実否を不問にして、むしろそれらの記述に発掘現場が引用されている。方法論的には正反対な論理で考古学報告書としての品位が問われそうである点が際立つのである。
【註】山本寿々堆伝承中世勝沼五郎地の虚像性から実像へのプロセス(考古学の危機その2
甲斐考古十二の一 一九七五年

(四)

A区の東からD区の西の端までの間の表土層~二層、場所によっては三層~四層と江戸中期を遡ることの出来ない染付磁器(俗にセトモノ・チャンカケラ)が全体から確認されている事実は、全く触れられていないのはどういうわけだろう。
例えば昭和現在の地表が今ここにあるとする。その下一部には大正時代の面が、いやその下には明治が、或は江戸の三〇〇年が、どんな形にしても存在しそして中世戦国という時代が一応あったものと仮定した場合に、ではA区~D区にかけるこの江戸中期を遡れないセトモノが埋っている地層は、余程の逆転劇のない限り、江戸中期よりも古い時代のものではないのであるということが何故関係者各位におわかりでないのだろうか。
(アメリカ、ハーバード大学のモゲィス博士はこういっている。つまり、層位は型式に優先するということなのである)
どんな型式のものが仮にあったにせよ、先程の層位の矛盾がある以上=古い時代のものは新しい時代のものより下位にあるという真理のことなのである。
A区~D区にかけての掘り進んだ現状は全くこの矛盾も甚だしいということにすべては尽きるのである。

(五)

この矛盾がある以上その矛盾を解きほぐさなければなりますまい。ところでその辺を、武田の系図で補っては見ても、或は勝沼五郎の死の古録の信憑性の定かでないものをあげては見ても全然見当違いなルールではないのだろうか。発掘現況は前述のとおり切開手術なのであるから、その疑問点があれば、その疑問は解剖の執刀者としてこういう道筋のこういう疑問であると、ありのまま、そのままを調査慨報にのべればよいことなのではないだろうか。
【註】山梨県教育委員会 勝沼氏館跡調査概報 一九七五年

(六)

中世の戦国時代のそれであるという保証は何物をさしていうのであろうか。
例えばその出土品千余点?を超す資料ではあっても、前述のように層位は型式に優先するという真理、道程を経たものでない以上全く科学的な裏付けが得られないということなどである。特に『やきもの』においてのそれに実年代をあたえうるものとするならばやきものについての研究のそれと併行して、それに近いところの窯元のものと同一のものであって、しかもその窯元の制作年代の実年代が保証されるものでなくてはならないことは最早やこの道研究のイロハなのである。ところで参考までに現在筆者の手元で窯元の予察が一部明らかとなりつつあることである。即ち上野晴朗氏自身も直接その同定を実物を持参せず写真のみで依頼、教示を願った、岐阜県の古川庄作氏の同定を参考にすれば天正六年二
五七八年)・加藤景貞以前にはどうも遡れそうもないようであり、勿論これが勝沼五郎のものだとする論証がなされない以上、百万片ありといえどもその基準にならないことはいうまでもないばかりか、屑位における局面の矛盾性が解決されない以上、例えさらに一〇〇年古くそのものが勝沼五郎生存年代中のものであったにせよ、史実、実否のそれ自身とは直接関係あるものではないので一応参考までにとしておきたいと思うのである。
 以上一応内項目にとりあえずまとめて問いかけたのである。
 
 最後に総括の意味をも含めて重要な指摘をしてみたい。即ち史実の実否が現在不能であるからといって強く引用した元和五年(一六一九年)の勝沼絵図をあげ、或は寛文十二年(一六七二年)の用水出入村絵図をあげては見ても、そのどこに勝沼五郎館の親子二代という事実の実が記入されているのであろうか。又少なくとも勝沼五郎の年代(一四九〇年代)(一五三五年、或は一五六〇年)の実態が理解されるのだろうか。史料というものを今少し客観的な視点をもって読了されればこのように一〇〇年も前のことの実否を問われてもそれは無理な理がおわかりなことであって、明治一〇〇年を経た今日例えば幕末あたりの状況を伝承する例があっても実否を問われれば何をかいわんやであろうことを深くその例として知って欲しいのである。
 次にこのようなことをまとめる意味で、史料の客観性、具体性、それに層位は型式に優先するの真理も踏まえ見てどういうことになるのだろうか。
調査概報の顔として公人である県教育長、丸茂高男氏名で、『はじめに』として
「第四次までの調査により土塁、堀、建物礎石等の遺構、陶磁器、土師質土器、鉄器等の遺物を検出した。かえりみて中世館跡の発掘調査は全国的に数少なく、本県では最初の試みであります」
と中世という時代と館という事実を決定づけた文をのせている点であり、さらに(日本中世史解明への一助)と公文をかかげたことに対する内容矛盾の点である。事実、実否を問いかけられる内容のうえに、行政サイドから歴史の虚像が造成されるのであれば何をかいわんやではなかろうか。行政サイドとしての権限は文化財の学術的評価を自身から下すところにあるのではない、それはむしろ学術的評価を可能にするための条件整備にあるのだといわれていることに注目されなければならないのではなかろうか。昨年文化財保護法の一部を改正する法律案に対する参議院文教委員会の附帯決議にもその意が見られるのである。
 文化財行政サイドは立つ関係者のこの二ケ年まき込まれた形の中では多事多難なことであったろうけれども、だからといって根拠の実否を問いかけないで或は、理への追求を待たずして中世勝沼五郎或は勝沼氏館の決定、判断を下したものとすれば学問的根拠のない自己に好都合の歴史ドラマ作成でこそあれ現在では史跡どころか後世に虚像のみを残す生標本を巨費を投じて作りあげたといわざるを得ないであろう。
 
 






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最終更新日  2021年04月14日 15時36分22秒
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