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2019年06月07日
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武川町の文人 松永実円(日研)実相寺住職

 実相寺第二十九世住職。明治二十四年(1891)四月三日、岐阜市元士族渡辺豊吉三男に生まれ幼くして松永家を継ぐ。七歳のとき当山第二十八世永田日祐聖人の室に入り慈教を受けた。姓は松永、字は実円、日研と称し、大正二年(1913)三月、東京堀の内檀林本科卒業、大正三年新潟県大乗寺住職、同八年三月実相寺住職に就任する。
 宗務所協議員、参事、録司補専任布教師、宗務副長等を歴任し、山梨県第四部宗務長等宗務を統理する。職業上からも、書は特に堪能で、わざに練達した住僧としてその名を天下に知らしめた。
権大僧正に叙せられ、昭和四十五年五月三十一日八十歳をもって世寿した。
     

武川町の文人 長坂勘三郎(桂園)北巨摩郡勢一斑の編集

 明治六年(1873)八月、牧之原において父園兵衛の長男として生まれた。明治二十八年(1895)、山梨県師範学校卒業、北都留郡葛野尋常小学校訓導兼校長となり、明治四十二年(1909)、中巨摩郡視学を歴任した。
大正十三年(1924)、北巨摩郡勢一斑を編纂、退職後は郷里において昭和十七年(1942)、武川村長、同農業会長となり、二十年(1945)辞任する。
 この間、長坂桂国の号をもって俳句も、精力的に雲母に投句するなど活躍した。特に書道には長じ雅号を武郷と称しその筆跡を残している。
 昭和二十四年(1949)十月、七十七歳をもって逝去した。
                                

武川町出身 斉木逸造(天民)甲府市長 北巨摩

 明治四年(1871)牧原村医師斉木良斉の長男として生まれ、同三十二年(1899)甲斐新聞を起し、のち社長となり峡中文化の推進に努めた。
 明治三十八年(1905)甲府市会議員、同四十年県会議員となってから再選されること五回、その間市会議長、甲府市長、県会議長に就任し、議会議員在職四〇年に達した。生涯を通じて地方自治に貢献した功績を認められ、昭和二十六年(1951)藍綬褒章を授与された。
 甲府市会議長、甲府市長、県会議長など政治生活が長かったため名士として書も能くし、号を天民と称し、一般的には天民翁といえば県民なら誰でも知るところである。
 昭和三十年四月、甲府市名誉市民の称号を贈られ、同年十一月一日八五歳の生涯を終わる。実相寺に墓がある。
                  

武川町の文人 一木義三郎(白髯)

 慶応二年(1866)、黒沢村斉藤義思忠次男として生まれ一木小左衛門の養子となる。
 明治十九年(1886)徽典館高等師範科卒業、北巨摩、中巨摩郡下小学校長を歴任、郡教育会評議員、北巨摩教育会分会長等その功績大にして県より表彰された。
 大正十年(1921)三月、在職三十五年で退職、その後は社会教育一木式健康法で朝鮮、満州、米国等行脚し、特に書道に長じ「神州神代桜の下に生きる」と印し、号を自賛と称した。自ら頬に白い髯を伸ばし、頼まれればいつ、どこででも喜んで一筆認めてくれた。襖紙、横額、掛け字等本村内にはかなり書き残されている。昭和十二年(1937)一月、台南にて七十二歳で永眠された。
 

北杜市武川町の文化史 墨跡 石原守政ほか『武川村誌』

 書は文字を素材とする造形芸術で、中国及び中国の文字を使用する朝鮮、日本、安南などで発達した。
 文字は言語に代わる符号として発達したので、万人に共通し理解される一定の約束さえ守られて書かれるなら、その結果としての形の美醜は問題としないともいえる。
 しかし同じ文字を書くなら出来るだけ見た目に美しくしようとするのが人間の表現本能である。したがってその形と線などの中に美しさを表現する造形美術である。
 紙、筆、墨の発明によって中国に花開いた書もまた我国民の文生活をいやがうえにも豊かにし、その芸術性の向上と普及に著大な効果をもたらしたのであった。
 長い伝統を有する書であったけれど、それが庶民のものとなったのは、明治・大正時代以降であって、それまでは殿上人や僧侶、神官、武士、学者など一部の知識階級、権力者に限られていたのである。
 明治初年、学制発布と共に義務教育体制が整備され、書は毛筆習字という基礎的段階の中で国民の中に解放され、そして定着していったのである。一方、「かな」は草書をもとにして日本で造られ、女手といわれるように、はじめは女子の間で用いられたが、平安時代には男の能書家も書くようになった。
 やさしく美しいかなは漢字と肩をならべ日本書道の主流となった。江戸時代の古文書に見られる文字はお家流で、尊円流が江戸幕府の公文書に採用されたのである。しかし儒者は明清の書を学んで唐様が流行した。本村の能筆家は次の人たちが特に有名であった。





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最終更新日  2021年04月14日 15時35分01秒
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