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2019年06月11日
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カテゴリ:明治時代史料

北洋の男 スノー 

 

ラッコの毛皮争奪戦

 

毛皮は砂全や頁珠とおなじように、人間の欲望を激しく剥き出しにする。それを追い求める者は極寒の海も嵐の難破、彼方からの銃撃も目には入らない。

北洋を舞台に活躍した大密漁 スノーもその一人だった。

 「ラッコ」がヨーロッパ社会に持て囃されるようになったのは、大探検家ベーリングが、カムチャッカを出発してアメリカ大陸の西岸に達した一七四一年以降のことである。「ベーリング」の名を我々が記憶するようになったのは、この探検の帰路は悲惨をきわめたからだ。

百トン足らずの帆船は、暴風雨や壊血病(ビタミンC欠乏症)と戦いながら西への道を辿っていたが、ついに十月のはじめ大時化で難破して、コマンドル島(コマンドルスキー諸島。ロシア連邦極東連邦管区に位置するカムチャッカ半島の東175km に位置する諸島である。)に打ち揚げられてしまった。

 七十七名の隊員は、その時四十四名になっていたが、その不毛の島で十二月八日にベーリングは不帰の客となり、生き残った隊員は島の動物を探し求めて食い、 かろうじて餓死をまぬがれて越冬し、翌春になって難破船の資材を集めて小舟をつくり、命からがらカムチャッカに帰還した。

 この悲報はやがてロシア本国に伝えられたが、これがロシアの北洋進出の契機となり、禍はわが国の北辺にもおよぶようになったのである。というのは、ベーリング隊の生存者がコマンドル島で食って命をつないでいた動物の大部分は「ラッコ」であったからで、その毛皮は本国に持参され、はじめて見るラッコのみごとな毛皮にロシア人は圧倒された。

 これに刺激されて、シベリアの荒野を股にかけていた命知らずのコサック達は、すかさず北洋を目ざして殺到してきた。彼らはもともと海に経験のある山の狩猟者であるから、あやしげな船を操って魔の海に突入し、数知れずの者が海底の藻屑とたった。それにもこりずに怒濤のように押しよせて、ついにアリューシャンに達した。アリューシャンには古くから、世界から忘れられて海獣を狩って平和にくらしていたエスキモーの分派のアレウトがいたが、ロシア人はこれを酷使してラッコを集めだし、やがてあらゆる残虐の手をつくし、アレウトはついにロシア人の奴隷化してしまった。

 やがてロシア本国では貴族たちがラッコ猟に投資し、アリューシャン、アラスカのラッコはロシアの大きな財源となっていった。

 アリューシャンのラッコはまもなく捕りつくされて、ロシア人は革舟を操るアレウト(エスキモー・アレウト語族は、アメリカ先住民諸語の中の言語グループの一つ。)の狩猟隊をひきいてアラスカ半島からアノリカ大睦の西海岸を、ラッコを追いながらしだいに南下していった。

 ラッコは世界では北洋にしか生息しない海獣であるが、このようにしてロシア人がラッコの毛皮を手に入れる前に、すでに中国人はこれを知り珍重していたのである。中国のラッコはじつは北海道のアイヌ、が世界にさきがけて捕えたもので、ラッコとはアイス名で、中国ではこれに臘虎(らっこ)という字をあてていた。もちろんわが国をつうじて中国にわたっていったのである。

 千島列島のラッコは、ベーリング隊の中の牛物学者ステラ-が北千島で見見している。ロシア人がこれに着目したのは、アリューシャン方面でラッコが全滅してから後のことであった。ロシアがアラスカでラッコを捕っていた当時中国は清の時代で、国運は隆盛を極め、ロシアは女傑ニカテリナん二世でまた隆昌の時代で、両国は一七九〇年ごろから蒙古の国境の町のキャフタ(恰立図)で交易をかし、ロシアから主に毛皮とラシャ、中国からは茶、木綿、絹、氷砂糖などが送られた。

 ロシアはそれまではアラスカ方面のラッコ毛皮は大陸を陸送して二半の歳月を要してようやく本国に到着する有様で、途中の損耗も多く利潤は少なかった、キヤフタの交易開始以来にわかに有割になってきた。 

しかしそのころロシア人達はアメリカの西岸を南下しつつあった時で、ラッコはだんだん滅少し、一歩でも内陸に足を入れたら、獰猛なアメリカインディアンの頑強べ反撃に遭い、のちに一八〇二年にはシトカにあったロシアの根拠地はインディアンの頑強な反撃に遭って全滅の憂目をみた。その一方着々と太平洋に進出してきたイギリス、スペイン、アメリカの商船隊はインディアンと妥協しつつ、おもむろに北上し、ひじょうに有利な条件でラッコ毛皮を入手して、太平洋を横断して直接中国に送り出し、ロシアのアラスカにおける立場はますます苦しくなっていった。そこでロシアの矛先は当然、残るラッコの宝庫千島にむけられるようになった。

 こうしてロシア人は、南千島のエトロフ島に、すでに入り込んでラッコをとっていたアイヌ人たちとのあいだに、幾度かいざこざを起こした。このころから、わが国内には北辺の急がつたえられ、その防備、が叫ばれたが、このようにロシアが南下してきたのは、晨初はラッコを目的としていたのである。それがアメリカ大陸の西岸で商戦上欧米諸国に圧迫されてからは、わが国と通商することにより、活路を見出だそうとして働きかけてきたのであった。だがこのころすでに太平洋は毛皮時代から捕鯨時代にはしっていて、わが国の近海にも各国の捕鯨船が出没していた。それは欧米では灯火に口-ソクをさかんに使用し、その原料として鯨油が使われたからで、北洋に活動していた海獣船は多くは捕鯨船に転業し、ふたたび北洋からさらにベーリング海、北氷洋にまでも乗り入れた。一九五九年に世界ではじめて石油の原油がアメリカ東部のペンシルベニア州で発見されたが、灯油として普及したのはずっと後のことである。

 明治維新になって明治二年からは北海道は北海道庁の前身、開拓使の管轄になったが開拓使はただちに千島のエトロフ島に出張所を設け、その官史に外国船のラッコ密猟者を取り締まらせ、アイヌ達が捕ったラッコは官庁で買上げた。

 明治元年(一八七一)に開拓使はラッコ毛皮の個人売買を埜し、もっぱら官庁で買い上げて函館に集め、これを売りさばいて、その利益は千島の道路や橋梁の経費にあてた。

ところがこの年、アメリカからきた六人乗組みのスクーナー(帆船)の、小捕鯨船シグネロト号は、黒潮を利用してどの船よりも早期にベーリング海に行き、鯨を捕りついでに流氷の中の難破船を拾得しようとして、目本にきたり、その沿岸を北上し、千島のエトロフ島の冲にさしかかった。そこではからずも多くラッコを発見し、貪弱な小銃で数週間のうち二百余頭のラッコを得て、ベーリング海行きをやめて函館に逆行し、輸送を托してふたたびエトロフ島に引き返し、さらに百余頭のラッコを捕り函館にあらわれ、船主キンバレーは船員を残してアメリカに帰った。

 このことは直ちに欧米人間に知れわたり、やがて千島には各国のラッコ船が群がるように集まって来た。これは日本の開拓使の頭痛の種となった。明治六年の開拓使の報告によると、

ニトロフの近海には、ロシア・アメリカ、イギリスなどのラッコ密猟船が年を追って増加し、最寄りの港湾に投錨して、船体破損とか薪水欠乏の為と称し容易に出港しない。難破して求難したアメリカ船のイリサ号のごときは軟鋼の手を尽くしたにも関わらず、救助不行屈と偽り、剰えわが政府に損害賠償を訴えるなど、その狡猾知るべしとある。

 

若きスノーの登場

 

千島島を荒らしまわったイギリス人の「スノ-」が活動を開始したのがこの頃からである。

 彼はこの当時は二十四歳の青年で相当な金を懐にして海洋生活に憧れてぶらぶらしていたが、偶然キャンバレーの船員に会って、共同して千島でラッコ猟をすることになった。さっそく百十八トンのスクーナー型の帆船を買入れ、これを改造して「スワロー号」と名づけ、とくに優秀な猟銃数挺を績み込み、船員には日本人も採用した。

 スワロー号は明治六年(一八七三)六月二十日に横浜を出帆したが、三日目に暴風に遭って大破し、松島湾に避難した。ここでは外国の選難船の取扱いによって、ほとんど無料同然で修理を受け、ふたたび航海を続けて、七月末にエトロフ島の沿岸に到着した。近海にはかっては抽鯨船であった、カロリン号がきて、ラッコか射って、僅か四人乗組みのラッコ船ホワイト・フルコン号なども見られた。

 ラッコ猟は母船から下ろしたボートに射手と漕手が乗って、多くは游泳中のラッコを追いかけて討つのであるが、ラッコは致命傷を受けると水上に浮き上るから、発見されたら、殆ど捕えられてしまった。

 夏であっても千島の海は平穏な日は少なく、濃霧でなければ嵐で、航海は容易でなかった。

スノーはある日、母船から離れて出猟中に暴風に襲われ、帰船することが出来ず、辛うじてエトロフ島に上陸し、空腹を抱えて二日間もボートの下で雨を凌いで過した。

そして風のおさまるのを待って一軒のアイヌの家に辿り着いて、食物にありつき命拾いし、三日目に母船に帰って来た。

 スノーはこの航海で七十二頭のラッコを得て引き揚げたが、帰航の途中でまたも暴風に見舞われ、スワロ-号は徹底的な打撃を受け、かろうじて根室港に避難した。船はもう使いものにならないので放棄して、船具は根室の倉庫に預けて船員はスノーとともに陸路函館に来た。ニトロフ島近海の外国のラッコ船の棟梁になった。

明治七年に開拓使は島の監視を強化し、附属船矯竜丸をエトロフ鳥近海に派遣し、さらに海軍省に嘆願して軍艦「鳳翔」と「大坂」の二隻を巡航させた。ところがこの当時は開国して間もない我が国のことであるから、外国のラッコ船の取り締まり国際法もよく分らず、再三開拓使長官、黒田清隆が外務省に指令を懇請した。そこで外務省は研究の結果イギリスの例にならって、

海岸を去る沖合三里を領海と解し、

その中に侵入した外国船は理由を問わず、

侵入者の扱いをすることに決し、

 

領海外の公海ではラッコ猟も漁業も自由に行い得るとして、

これを各国の領事に令達した。しかし、

 

千島のエトロフ島、シコタン島、クナシリ島

などは不開港地であるから、

外国の船舶は避難した時、

燃料や飲料水の欠乏の緊急時は立入ることができるが、

十時間以内に離島する条件であった。

 

スノーの手記でも明らかであるように、諸外国のラッコ船は堂々とこの規則を無視して領海に侵入して猟をなし、あるいは強行上陸し、発見されても詭弁を弄して拿捕(だほ)を逃れ、ことごとくが密漁船であった。

 監視船矯竜丸はエトロフ近海で密猟の数隻の外国船を発見したが、その中のアメリカのスクーナー、サンハン号はアメリカ人十三人、イギリス人三人、日本人二人が乗り組んでいたが、その時の模様は日本側の報告に詳細に出ている。

 すなわち明治七年六月四日矯竜丸はエトロフ島対岸の領府内に一隻のスクーナー(2本以上のマストに張られた縦帆船)、が停泊しているのを発見した。直ちに当方から国旗を掲揚したところ、スクーナーからは何の応答もなかったので、空砲を一発放った。そこでようやくアメリカの国旗を揚げた。通訳を伴ってポートで接近したところ「サンハン号」で、その甲板にはラッコの生皮が乾燥の為に拡げられていた。そこで訊問に入った。

 「この船はなんのために、この領海に停泊しているか」、当船江ロシア領ウルップ島(当時この島はロシァ領)にラッコとタラ(鱈)を捕るためにやってきたが、帆船であるために風向が悪くなり止むを得ず停泊している。が、この近海では確かにラッコを捕った。

ではラッコ猟の許可証があるか、またここに日本政府開拓使所管の千島のエトロフ島であることを知っているか」、

「船長は目下ボートで出猟中であるから分からない」、

エトロフ島は日本の不闓港地であるから許可なくして猟はできない。また風待ちのため領海に滞在していても十時間以内に出なければならないことを知っているか」。

乗組員は

「船長でないから分らない」

「世界の公法で河岸から大砲の玉の屈く範囲、すなわち三里は領海で、その中で猟ができないことを知っているか」

「それも分からない」

「船長が帰って来たら本船にくるように伝えられたい。本船は外国船が近海で密猟してしると聞いて取り締まりに来ているので、このことは各国の領事が了解しているから、猟をするからに魚猟免許状がある筈であるから、それを持って留守中の責任者は本船に同行されたい」。

 そこで留守番のジョンスを同行したが、まもなく船長がサソハン号に帰船し、矯竜丸に現われた。

 「あなたの船がここに停泊しているのはなんのためか、船籍と乗組員の詳細を聞かせて欲しい」。

「本スクナーは去る三月二十一目にサンフランシスコを出帆し、途中カナダに寄港し、その後ウルップ島でラッコを捕る為に、当地に差し掛かったが、風向きが変わったために当地に差し掛かったが、風向きが変ったので、五月十一日から風待ちして停泊していて、ラッコを捕っていた。船名は、ジュン・テ・サンハン号、船長はバスケスで乗組員は十九名である」。

「ここはどこか知っているか」。

「はっきりと分らないが多分ロシア領と思う」。

「ここは日本領の千島のエトロフ島で、不開港地であるから、猟はできない」。

「風待ちと称してラッコを密猟しているものがしばしばあるがよろしくない」。

「河岸から三里内は領海で国権のおよぼす所であるから、一切の産物は採取できないことは知っているのか」。

「日本の領海であるとは知らなかった。ごらんの通りの帆船で風の様子で航海し、または停泊するしだいで、領海の公法は心得ているが、ここはロシア領と思っていたので昨今三里以内の海でラッコを三頭獲った」。

「念のため乗組みの日本人二人をよんで調べてほしい」。

 「あなたはわが国のこの領海に許可証も無くてみだりに入り、その上この地の産物を密猟した。乗組みの日本人もこのことを証言しているから、領海で獲ったラッコは全部当方に引渡し、できるだけ早く退去されたい」。

「獲ったラッコ皮は百十三枚であるが、全部が領海内で得たものではなく、そのうち二十枚は領海のものである。実は自分も本年はじめて禁猟のことを知らずに出てきたもので、例え船は没収されてもラッコの毛皮は国際裁判にかけても全部を渡すことはできない」。

「風待ちで停泊していることに了解した。しかし速かに退去することはもちろんのこと、密猟したラッコはことごとく当方に引渡すのは道理ではないか」。

「退去は承知するが、ラッコの皮は渡し兼ねる」。

 
 ラッコ毛皮を渡す、渡さないで押し問答を繰り返し、乗組みの日本人は百三十枚のの皮は全部エトロフ島で密猟したものであることを述べたので、結局二十枚だけを没収し、後は裁判にかけて決定することにして、この事件は一応現地解決を見た。

この時に乗組んでいた目本人は二十五歳と二十七歳の青年で、明治四年にイギリス船に雇われてニユ-ジランド往き、後サンフランシスコに移り、サンハン号に乗り換えて、ラッコ猟のためにエトロフ島に来たということであった。






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最終更新日  2021年04月14日 14時21分46秒
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