カテゴリ:日本と戦争
『日露和親条約』
井伊直弼が大老になる五年前の嘉永六年(一八五三)の六月三日、アメリカのペリーが浦賀に突如現れた。そのほぼ一カ月後に今度はロシアのプチャ-チンが長崎に姿を見せた。本来ならこの嘉永六年からを正しく幕末と呼ぶべきなのだろう。オランダの出島は早遠この一件を風説書に記述し幕府に提出した。 それにはプチャーチンが艦隊を率いて日本へ末だのは、アメリカ使節のようすを探るためだろう、とあった。 しかし、長崎奉行はプチャーチンの来日は、「国書奉呈」であることを知った。また、直接江戸に行かず、まず長崎に来たのは日本の法律に従ったのだ、とも付け加えた。 幕府はすでにアメリカの国書をペリーからうけ取っているので、同じようにロシアの国書もうけ取ってよい、と長崎奉行に伝えた。奉行大沢秉哲は奉行所においてロシアの国書を受領した。 ロシアはこの国書に、「両国の北方の国境を定めたい」ことと「通商貿易を開きたい」と二つ要請していたのである。 ロシアの要求はまず択捉(エトロフ)島は、両国の民が共に住居しているので、所属をはっきりさせたい。カラフトについては、南部アニワ港に少数の日本人が住んでいるのみで、他は原住民。すでにロシアは軍隊を駐屯させて平和裡に支配している。日本人をも厚く保護している。 二つめは通商である。江戸の近くに一港、北海道に一港を開いてほしい。そのための条約の締結を いち早く希望している。 幕府は、この締結は向こう数年間無理だと断った。 しかし、プチャーチンの平和友好的な態度は、幕府の印象をよくした。ペリーの外交の姿勢とは全然違っていたから、親露(ロシア)排米(アメリカ)の気分となっていた。 ロシアとは条約をとり結び、ロシアの力を借りアメリカの強い要求を拒絶せしめたい、と虫のいいことも一時考えてみた。しかし、当時水戸斉昭はこのような考えに反対で、とにかく延期策を講じたのである。 筒井政憲と川路聖謨の二人が外交担当として、長崎に赴きプチャーチンと交渉に入った。 この時の川路聖謨の外交官としての態度はロシア人に感服を与えるほどであった。川路は、話の筋道を立て、分かり易く相手の主張を崩していった。話が論理的に組み立てられてあるので、相手も理に合ったことでは、もう攻撃してくることは出来ない。しかも、川路は日本の代表者としての堂々たる態度で応接した。プチャーチンにひけをとらず、そのうえ誠実だったから、ロシア人から信頼された。当時の幕府の外交官たちは、なべて川路のような態度で応接した。
『日露和親条約』は
カラフト(樺太)は両国の共有ということ で締結された。これは、日米和親条約に準拠していた。
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最終更新日
2021年04月14日 14時17分45秒
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