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2019年06月13日
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カテゴリ:日本と戦争

対馬島民とロシア軍艦 

  
  著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

   『教養人の日本史(4)』社会思想社刊

 

一八六一(文久元)年二月三日、ロシアの軍艦ポサドニック号が、対馬湾内に侵入し、その付近を測量し、つづいて三月四日、芋崎浦に停泊し、上陸しはじめた。名目は軍艦の修理であったが、木を伐り、営舎を建設し、どしどし永住の施設をかまえはじめたということは、この対馬を事実上支配下に置こうという意図があったことが知られる。それは、対馬が東アジアにおいて重要な位置にあったからだ。だからイギリス、フランスに対馬占領計画があるとの噂が出るや、ロシアは急いで手をつけたのだ。

またこのことを知ったイギリスの駐日公使は、ロシアが対馬から退去しないときには、フランスと協力して対馬を占領し、さらには割譲させるべきだと本国に上申していた。

他方アメリカ公使は、対馬を西欧諸国に占領されるまえに国際自由港とすべきだとの意見をもっていた。確かに対馬の位置は重要であった。欧米諸国は、隙があれば対馬を自分のものにしようと狙っていたのである。

 ところがこのロシアによる日本領土の事実上の占領という事態にたいして、藩や幕府は、きっぱりとした態度を示そうとはしなかった。

四月一二日、ロシア水兵の一隊が大船越村に上陸しようとした時、これに対して勇敢に戦ったのは、藩の武士ではなく、この村の農民であった。そのため一人が殺され、二人が捕えられた。この事件が局内に伝わるや、府内の郷士や農民たちは憤激して、老人や女・子供を安全な場所に移し、ロシア軍の侵略に断固抵抗しようとの意気に燃え立った。こうなると、「穏便に」すませることだけを考え、ロシアのなすがままに任せていた藩政府も、武力対決の意向を示した。だがそのとき幕府の意見を聞いてからという逃げ口上も忘れていないのである。そこへようやく幕府から外国奉行の小栗忠順がやってきた。この小栗の態度は、藩よりも弱腰であった。一応ロシア軍に退去をもとめはしたが、簡単に受け容れるはずがない。それどころか、それまで藩政府が拒否していたロシア軍の藩主との面会と自由散歩の要求を認めてしまって、わずか二週間で江戸へ帰ってしまう有様であった。しかし藩政府は、自由散歩も土地の租借も許さなかった。藩政府は、もしロシア軍の望み通りにすれば、「一同不服、憤怒の人気取押相成り難く」なるからだと書いていた。

 そこでロシア軍は、六ヵ月間も粘ってもなお目的が達せられなかったので、イギリスの圧力もあって、八月二五日対馬を退去した。

この事件は、この時期の日本が、場合によっては植民地にされる危険が多分にあったこと、そしてそれにたいして本当に抵抗したのが、幕府や藩の武士ではなく、農民であることを示していた。 






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最終更新日  2021年04月14日 06時39分07秒
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