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2019年06月13日
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カテゴリ:日本と戦争

 長州藩降服 英・仏・闘・米四力国連合艦隊の攻撃

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

   『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

軍艦一七隻、砲二八八門、兵員五〇一四名。これは、一八六四(元治元)年八月、長州下関を攻撃してきた英・仏・闘・米四力国連合艦隊の兵力である。

これだけの兵力に攻撃されて、長州側の主要な砲台は、一時間ほどでみな沈黙してしまった。そして翌六日には二〇〇〇名余の陸戦隊が上陸して、すっかり砲台を破壊した。さしもの長州藩も、強力な近代的軍備の前に、あっさりと頭を下げたのである。

 長州藩といえば、藩の正規の軍事力だけでなく、奇兵隊その他の農民・町人を含んだ軍隊を編成しており、国をあげての防衛体制をつくりつつあった。それというのも、京都における「禁門の変」に大敗し、朝敵と宣告されるという苦しい立場に置かれており、しかもイギリス留学からあわてて帰国してきた伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)が、連合艦隊と戦うことの無謀を主張していたため、最後まで連合艦隊に対する方針がぐらついており、民衆動員を徹底して行なっていなかったからである。それに連合艦隊は砲台は占領したが、それ以上藩内に攻め入ろうとはしなかった。それは民衆を敵に回すことが不利であると考えたからだ。

 ともあれ長州藩は降伏し、諧和が成立した。その協定のねらいは、長州荷を攘夷から開国に「改宗」させることであり、さらに下関を開港させることであった。下関は河口本の海運の中心であったので、下関を掌握することは西日本の経済をおさえることを意味する。当時対日外交の中心であったイギリスは、開国に反対する勢力には徹底的に武力を行使したが、民衆の反。乱による混乱を避け、貿易の拡大をもとめることには慎重であった。それに長州藩の指導者も不揃い敗北の結果、大きく開国に傾きはじめた。

ところが事態は、そうはかんたんに進まなかった。というのは、幕府が朝敵長州藩追討の命をうけ、諸藩に出兵を命じたからである。丁度、連合艦隊が下関を攻撃していたとき、幕府の命をうけて中国・四国・九州の二一藩一五万の兵が、長州藩を取り巻いた。この窮境のなかで、保守派が藩政権を握り、禁門の変の責任者である三人の家老と四人の参謀を処刑することによって、幕府軍に対し、戦わずして恭順することとなった。「第一次幕良戦争」である。かつての急進的な尊攘派が開国に傾きかけたとき、幕府に恭順する保守派に藩の主導権をとられたのだ。だがその急進派の指導者高杉晋作は、いったん九州に逃れたが、一二月下関に帰り、武力でもって保守派を倒し、藩の主導権を取り返したのである。もはや彼らは藩を飛び出しはしない。藩権力を握ることこそが必要であったのだ。






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最終更新日  2021年04月14日 06時38分38秒
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