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2019年06月13日
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カテゴリ:日本と戦争

岩倉遣欧使節

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

   『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

 条約は結びそこない 金は捨て 世間に大使(対し)何と言わくら(岩倉)

 

岩倉具視以下の使節が、横浜を発ったのは、一八七一(明治四)年一一月二日であった。

明治政府は廃藩置県をなしとげ、ようやくその基礎を固めるや、首脳部の大半を欧米に派遣したのだ。

 一行はまずアメリカに渡り、ワシントンで条約改正の交渉に入ったのである。交渉がはじまるとアメリカ側は、まず主権者からの委任状の提示を求めた。ところが日本側は、そのようなものが必要であることを知らなかったので、急いで取りに帰ることとなった。これでは話も進められないというので、彼らは条約改正交渉のことは諦めて、第二の目的である欧米諸国の視察に主力を向ける事となった。

ある欧米諸国の視察に主力を向ける事となった。こうして彼らは、二年近い歳月と一〇〇万円の国費を使って帰国したのである。                          心 だがこの視察団  

だがこの使節団の持った意味は大きい。ともかく一国の最高首脳部の大半が、国が出来て間もないころに、二年もの間、先進的な文明国を歩いて回ったのである。大使に岩倉具視、副使には大久保利通・水戸手孝允(たかよし)・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)、そのほか総勢四八人であった。このなかには大倉喜八郎のような商人、仏教界を改革した島地黙雷、歴史家久米郡武、新聞界の先駆者となった福地源一郎なども加わっていた。さらに五九人の留学生も同行している。このなかには一五歳以下の少女が五人も居り、のち女子高等教育に尽くした津田梅子は、わずか八歳で参加した。また大久保利通の子牧野仲顕も一〇歳で参加していた。その後の日本の近代化政策を推進した人物ばかりである。国家の草創期にこれだけの人物が一度にしかも長期間外国を巡遊したということは、明治政府の意気込みを知らせるものである。

それだけに使節の人選については、いろいろと問題があった。政府部内の開明派のほとんどが出るので、太政大臣の三條実美は、大久保・木戸の主張に対し、同じ開明派であった大蔵大輔・井上馨は、せめて太久保だけでも残るべきだと主張したという。

だが岩倉は、この二人は今後の日本のためにぜひ出すべきだと力説した。こうして彼らは、アメリカからヨーロッパに渡り、ロンドン・パリ・ベルリンを歴訪した。

これらの国々の中で、とりわけ一行に意味があったのは、プロシャの鉄血宰相ビスマルクとの会見にあったようだ。ビスマルクは、一行に招かれた宴席で、日本が学ぶべきは「大国に抗して独立を維持している君主権の強力な自分の国」であるとのべたという。一行はこの独裁的なビスマルクに魅せられたようである。






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最終更新日  2021年04月14日 06時36分35秒
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