カテゴリ:日本と戦争
日本 朝鮮侵略開始 著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
日本が台湾に兵を出したことについて清国と交渉したとき、仲介に乗り出したイギリス公使は、 「日本は台湾よりも朝鮮に向かえ、それならイギリスも援助するだろう」 と朝鮮侵略を唆したという。イギリスは、香港と北京との間に他国の勢力が入ることを望まなかったからである。それにしても「交易にて魯墨に失ふ所は土地にて許諾に價ふべし」いう吉田松陰の言葉は、やはり生きていた。
「江華島事件」 一八七五(明治八)年九月一九日、日本の軍艦、雲揚は朝鮮の首都京城の前面にある江華島に近づき、飲料水を探すためボートで江華湾に入っていった。ところが江華島の砲台から砲撃を受けたので、ただちに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、永宗島を占領して民家を焼き払い、砲三六門を奪って引き揚げてきた、これがいわゆる「江華島事件」である。この事件の報告をうけた政府は、ただちに陸海軍首脳とも協議して出兵の用意を整えた。政府は、これを機会に直接軍事的威圧を朝鮮に加えることによって懸案になっていた「修好条約締結」の問題を一挙に解決しようとしたのである。だいたい外交関係もない国の軍艦が、いきなり首都の前面に現われたとあっては、砲撃されても仕方があるまい。それに被害をうけたのは日本側では心なく朝鮮側であった。 こうして日本側は黒田清隆を全権として総員二七人の使節団が、近衛・東京・大阪・熊本・広島の各鎮台の兵を載せた三艘の軍艦、三隻の運送船に守られて朝鮮にむかった。このときアメリカ公使は、そのころ本国で出版された『ペリー日本遠征記』を黒川全権に贈ったという。 一八五三年、日本に大砲を向けながら迫ったペリーと同じような気持で黒田は朝鮮に向かったのであろうか。黒田全権一行は、七六年一月一五日釜山に入港し、ここで示威の演習したのち江華島に向かった。 江華島についたのが二月四日、一〇日に約三〇〇の兵を率いて上陸、翌一一日、日本艦隊の紀元節の祝砲と示威をかねた砲声の下で交渉は開始された。 こうしてむすばれた日韓修好条約は、第一条に 「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」 と規定しておきながら、日本が一方的に領事裁判権を持つ不平等な条約であった。したがって相互対等をうたったのは、朝鮮が清国に服属する体制を否定するためであった。これは「安政条約」によく似ており、日本が欧米から強制されたものを同じアジア人に押付けたものであって、その後の朝鮮侵略のまさに出発点であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時34分48秒
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