カテゴリ:日本と戦争
一八八二(明治一五)壬午の軍乱 反日暴動
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
日本銀行条例が公布されてほぼ一カ月後の一八八二(明治一五)年七月二三日、朝鮮の日本公使館は五〇〇〇名にものぼる軍人と貧民にとり囲まれた。日本資本主義が本格的に発展する体制を整えた矢先に、朝鮮で反日運動が突発したことは、両者の関係の深さを示している。 事件は軍人暴動に始まった。兵士に対して、給料の米が一〇カ月あまりも支給されず、やっと一カ月分与えられると量が不足し、砂や糠が混ぜられていた。倉庫番が米を横流ししていたためである。兵士が倉庫番を殴ると、上官の閔謙鎬が兵士に死刑を云い渡した。それに憤慨した兵士が暴動を起こしたのである。 暴動が反日運動に発展した原因は、「江華府条約」以来の日本の侵略政策にある。 当時、朝鮮から日本に輸入されていたものの八割までが安く買い付けた米であった。日本は高級米を輸出し、安価な米を輸入していたのである。それは資本家や地主の利益になった。そのため各地で米価が暴騰したが、とくにソウルでは二、三倍にはね上がった。倉庫番が米を盗んだのは、この機会に一儲けしようとしたからである。米価の値上がりは、貧農や市民の生活を脅かしたが、とりわけソウルの貧民に対する影響は大きかった。彼らは日本の公使館員や商人に石を投げつけるほど、恨みを募らせていた。兵士の多くはソウル周辺の貧民出身だったので、強い反日気分を抱いていた。また、国王と閔妃(びんひ)一派が国内改革の一つとして別投軍という新式軍隊を組織し、日本の陸軍少尉堀本礼造を軍事顧問として訓練に当たらせていたが、他方で旧式軍隊を甚だしく差別した。これに対しても兵士は強い不満をいだいていた。だから暴動がいったん始まると、矛先が閔妃一派の重臣に向けられるだけでなく、日本公使館へも向けられたのである。またソウルの貧民が呼応したのも当然である。暴動に手の施しようのなくなった花房義質(よしもと)公使ら一行は、自ら公使館に火を放って仁川に逃がれ、イギリスの測量船に救助されて長崎に逃げ帰った。堀本少尉ほか数名の日本人は殺害された。 日本政府は緊急閣議を開き、朝鮮政府の謝罪や被害者遺族への扶助料支給、巨済島または鬱陵島の割譲などの強硬方針を決め、八月中旬軍隊一五〇〇名と軍艦四隻を率いた花房公使に交渉させた。しかし、閔妃(びんひ)一派は靖国に派兵を要請したので、清国軍は三〇〇〇名の大軍を送って暴動を鎮圧し、日本の侵略計画に対抗、アメリカも軍艦を派遣して日本を牽制した。結局、日本政府は領土分割をあきらめ、朝鮮の「謝罪」や五〇万円の賠償、遺族補償などを定めた済物浦(さいもっぽ、チェムルポ)条約を結んで事を終わらせた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時34分26秒
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