カテゴリ:日本と戦争
大津事件 ロシア皇太子を襲う
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
「露国皇太子ハワガ日本国ヲ横領セントスル野心アルヲモッテ、ワガ国ヤムヲ得ズ皇太子ノ生命ヲ戴カザルヲ得ザル次第ナリ」と、 大津事件の犯人巡査津田三蔵は、大津地裁の判検事の尋問に答えた。一八九一(明治二四)年五月一一日、京都に滞在していたロシアの皇太子一行は、琵琶湖見物に出かけた。その帰り道、大津の市内で沿道警備の巡査に斬り付けられたのである。傷は頭部に二ヵ所ほどであったが、生命には別条はなかった。 だが政府は大いに慌てた。ロシアといえば当時世界最大最強の国といわれていた。それにロシアは、そのころ満州・朝鮮へと東アジアにおける南下政策を執り始め、シベリアをヨーロッパからアジアヘと横断する鉄道の建設に着手しかけていた。 皇太子が日本に来たのも、ウラジオストクでのその起工式に出席する途中に立ち寄ったものである。シベリア鉄道が完成すれば、その南下政策は本格化するであろう。 「強露南下」、それは人口三五〇〇万、陸軍六個師団、海軍は殆ど無いに等しい東方の島国日本にとってみれば、大きな脅威であったろう。しかも皇太子一行は七隻の軍艦を従えていたのだ。そのロシア皇太子を傷つけたというニユースが入ったときの政府の狼狽ぶりは想像に絶するものがある。成立直後の松方正義内閣は、伊藤や山県などの重臣を集めて御前会議を開き、伊藤がお供をして明治天皇が京都へおもむき、皇太子を見舞ったのである。このような動きは全国的であった。 津田の出身地の村会では、「津田の姓」・「三蔵の名」をつける事を得ず、と決議する。 そして政府は、犯人死刑の方針を決め、それを裁判所に押付けようとして、大審院の係り判事に大臣が直接働きかけた。 ところがこの問題は、決して日露間だけの問題ではなかった。ロシアがシベリア鉄道を完成すれば、東アジアにおけるイギリスの主導権は奪われる恐れがある。だからイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本を利用することを考えはじめた。そのころ日本が要求していた治外法権の撤廃を認めることによって、日本をイギリスの東アジアにおける憲兵に仕立て上げようというのである。 日本は、「シベリア鉄道ハ英国ノ東洋ニ於ケル特権ヲ奪フノ利器」であるとの判断に立って、イギリスのアジア侵略にいわば同訓しながら、朝鮮・満州への侵略を本格化しはじめるのである。 このような空気のなかで、国賊あつかいされた犯人津田が、一転して「志士ナリ、愛国ノ男子ナリ」と評価されるようになった。そして無罪に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時32分19秒
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