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2019年06月13日
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カテゴリ:日本と戦争

「日清談判破裂して」

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

   『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

日本政府が朝詳への出兵を決定したのが、一八九四(明治二七)年六月二日、二日、そして五日には大本営を』開き動員令を出した。清が「大津条約」によって出兵を通知してきたのが七日であるが、日本軍の一部は早くも九日に京城に入り、一二日には主力部隊が仁川に上陸している。大変すばやい、しかも大本営まで設けた大がかりな出兵ではあった。

それというのも参謀本部が、すでに五月下旬から出兵準備をはじめ、六月一日には「陸軍大演習用」の名目で日本郵船の汽船の集結を命じている。用意は整っていたのだ。

ところが日本車が朝鮮に到着したころには、出兵の口実であった東学党の「内乱」が一応静まっていた。となれば、大部隊を派遣した口実を新しく作ることが必要になってくる。

「曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、イカナル手段ニテモトリ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」

というのは、このとき政府が京城の公使館に出した指令である。その「口実」をつくるため、まず清にたいして共同で韓国の内政改革を行なうことを提案する。予想通り清は拒否してくる。

なんとか清国軍を挑発しようとするのだが、なかなかうまくいかない。

そこへ清の依頼もあって、ロシアが日清両国の撤兵を申し入れてきた。ところが日本は、ロシアの南下政策を警戒していたイギリスの支持を得て、ロシアの干渉を排除し、朝鮮に進出しようと企てていた。

アジアにおけるイギリスとロシアの対抗関係のなかで、イギリスに接近することによって、ロシアを牽制したのである。それが「日英間の条約改正交渉の成立」となったのである。新しい条約調印の日、イギリスのキンバレー外相は、日本側代表に

「此ノ条約ノ性質タル、日本ニトリテハ、清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ、ムシロハルカニスグレタルモノアリ」

と、祝辞をのべた。いねば日清開戦についてのイギリス側の支持をとりつけたのである。すでに武器は、日本人の体格に合わせた「村田銃」と「七センチ野山砲」で全軍が統一されていた。

しかしそれにしても開戦の口実がいる。韓国政府に清国軍を撤兵させることを要求した。結局日本車の軍事的威圧の中で、韓国政府は清国軍の追い出しを日本に依頼することとなった。口実はできた。日本車は陸に海にただちに戦闘を開始した。七月二五日のことであって、日英改正条約調印後、わずか九日目である。こうして日本にとって最初の本格的な対外侵略戦争がはじまったのである。






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最終更新日  2021年04月14日 06時31分57秒
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