カテゴリ:日本と戦争
三国干渉
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
「おはなはんは、戦争勃発のときに満十二歳であった。戦争などはまったく他人ごと、何が破裂したの か一向に分からぬままに、『日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦』と、小学校で歌った帰りには、生田流琴三味線指南の大看板の掲げられた私塾へ通った」。 田舎町の幼い少女の眼には、戦争などは「東京におって大阪の交通事故の話聞いとるようなもんじゃったね」と述懐する程度のものであったようだ(林謙一)「おはなはん一代記」。だがかなりの日本人は、この戦争のなかで軍国熱に浮かされていったようである。 当時高等小学校の生徒であった秋田雨雀は、「そのころ私は、驚くべき軍国生殺四者で、日本は武力によって世界を征服してしまわなければならないという作文を書いている。私はそれを見て顔が赤くなったが、しかしこの時代の日本の青少年は、たいていこのような軍国主義によって教育されていたようである」と思い出している。 ともかく戦争は、日本の圧倒的な勝利に終わり、一八九五(明治二八)年四月一七日、下関において日清間の講和条約はむすばれた。これによって日本は、念願であった朝鮮を支配下におくことが可能になり、さらに遼東半島や台湾を足がかりにして中国大陸にのり出せる地歩を確保したかにみえた。このことによって日本は、欧米諸国に圧迫される国から欧米諸国とともに朝鮮・中国を圧迫する国に変わったのである。 ところがその六日後、ロシア・ドイツ・フランス三国の公使は、外務省に「遼東半島の領有は東洋の平和に害あるをもって、すみやかに放棄すべきだ」と勧告してきた。ロシアの南下政策にとって、日本の遼東半島領有は大きな障害になる。だからロシアは武力行使も辞さない覚悟で干渉してきたのだ。ここでロシアと戦う自信のなかった政府は、遼東半島を返還せざるばなるまいと判断した。 日本は、領土分割のための抗争においてロシアに一歩譲ったのだ。だがこのことは、日本の軍国主義的国内統一に大きく役立ったようである。償金のほんどすべては軍備の拡張に使われ、目清戦い争のため少なからぬ犠牲を払った民衆は「臥薪嘗胆」のスローガンによって不平不満を全く封じられてしまった 「三国の好意、必ず酬いざるべからず、わが帝国国民は決して忘恩の民たらざればなり」 とは、そのころの総合雑誌『太陽』の文章である。 「臥薪嘗胆」とは帝国日本の栄光の為に、すべてを犠牲にすることを国民に求めたスローガンであった。少年秋田雨雀も少女おはなんも、この帝国日本のレールの上にのせられていく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時31分23秒
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