カテゴリ:日本と戦争
「極東の憲兵」
著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏 『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆
一九〇一(明治三四)年四月、山県有朋は「東洋同盟論」を書き、現在、列強の中国侵略は激しさを加え、「清国の瓜分(かぶん)終に免るる能」わざる状況であるから、「徐(おもむ)ろに大勢の推移を待たんと欲せば、暫く露と反目するも、寧ろ英に合縦(がっしょう)するを得策とす」と論じた。イギリスと同盟して、ロシアと戦う政略はここに確定したのである。 日本と英国の結びつきは、ロシアの南下につれて強まった。一八九八(明治三一)年、ロシアが旅順大連を占拠した時、イギリスはこれに対抗しうる侵略根拠地を求めた。この年五月チエンバレンは「ある陸軍国と我夕が同盟しないなら、我々は決定的にロシアを制圧することはできない」とのべ、日本の役割に注目した。日本の支配者たちはこれに応え、清国から受取る償金の担保として占領していた威海衛を、イギリスに引渡した。日本が「朝鮮ニ於テ一ノ根拠地ヲ得ル事ニ付、彼ノ後援ヲ求」めるためである。日英同盟の種子はここに播かれた。 厦門事件直後の一九〇〇年九月、福建侵略を諦めた日本政府は、朝鮮侵略に力を注いだ。まず政府は、貨幣制度改革・ソウル水道工事などのため、朝鮮政府に第一銀行から五〇〇万円の借款を与えることを決定した。海関収入を抵当とするものであった。これはすでにアメリカの資本家が、海関収入を抵当として借款供与を申し入れたことに対抗するためであった。 結局、朝鮮総税務司であったイギリス人ブラウンと林董(ただす)公使が共同してアメリカ資本を追いはらい、日本の借款を強要した。これは、「事実ニ於テー種ノ日英同盟宇」と評価された。 義和団事件で、イギリスは、日本の軍事力が極東侵略に大きな力を発揮することを認めた。 他方、ボーア戦争で国力を消耗していたので、極東に強大な軍隊を派遣することは不可能であった。折から、ロシアは満州占領を進め、露清密約を改訂して満州の割取と清田の保護国化を企てていた。イギリスの中国侵略政策は、危機に瀕した。 一九〇一年三月一一日、イギリス外務次官バーティーは「露仏に対抗する上でイギリスは日本の同盟国」となるべきだと記した。日英同盟交渉は七月から本格化し、翌一九〇二年一月三〇日、ロンドンで調印された。条約は、イギリスは主に清国に、日本は韓国に、政治上・商業上・工業上の権益を持つことを確認し合い、他国の侵略や民族独立運動が起った場合には、権益擁護のために共同の措置を取ることを決めていた。日本は強力な軍隊によって、アジア民族を監視する「極東の憲兵」となったのである。日露戦争は、こうして一段と早められることになった。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 06時17分19秒
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