2295406 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年06月15日
XML
カテゴリ:日本と戦争

奉天会戦と日本海海戦

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

    『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

一方には日本軍二五万、砲九九二門。総司令官大山巌はこう訓示していた。

「土地を略し塁蹔(るいぎょ)陥れるは、この大作戦方針の主眼にあらず。多大の損害を敵に与え、敵をしてまた立つ能(あた)わざらしむべし」

他方には三二万のロシア軍。クロパトキン大将は

「此度の合戦においては決して退却を許さず、退走するものは日本兵の武器に斃(たお)れずして、退走を罰する刀剣の錆となるべし」

と命令した。一九〇五(明治三八)年三月一日、奉天での決戦は火蓋(ひぶた)を切った。

戦争開始から一年余、戦闘はロシア軍陣地の攻防をめぐって、次第に北上してきた。いずれも満州支配のための拠点である。南山の戦いを皮切りに、日本軍は、一九〇四年七月には得利寺の遭遇戦に勝ち、八月末から遼陽のロシア軍陣地を攻撃した。同時に遼東半島の南端旅順要塞の攻撃を開始した。旅順はて一月の二〇三高地占領で大勢が決まり、翌一月一日に降伏させることに成功した。参加した兵力一三万人、そのうち五万九〇〇〇人が死傷するという犠牲が伴っていた。北部戦線は、沙何の戦いの勝敗が決まらないまま、対侍の状態で冬営に入った。

一月に入りロシア軍は、日本軍の戦闘体制が整備される機先を制するために、一〇万の兵をもって猛攻に出、黒溝(こくこう)台の会戦を挑んだ。激闘五日の末、ロシア軍は退却したが、日本車も九○○○人の死傷を出していた。

日本軍は、決戦に出てロシア軍に大打撃を与え、戦局を終わらせる他ない情勢に立たされるようになった。将校の戦死が相つぎ、兵士も精鋭部隊を補充する見込みがつかなくなり、また武器の製造と補給が限界に達し、砲弾も全軍で二〇数万発を残すだけとなった。そのため、一師団を除く全兵力を満州に集結し、奉天での決戦を企てたのである。

戦闘は一週間におよび、日本軍の死傷は七万、ロシア軍は九万にのぼった。クロパトキンは、戦力も増強を待ち、ハルピンの決戦を期して退却し、日本一軍は奉天を占領した。しかし、追撃する余力はなく、戦局を決しないまま、昌図・関原の線で停止を余儀なくされた。

ロシア軍は、バルチック艦隊の応援を得て、ハルピンで日本軍を殲滅する作戦に出た。五月二七日バルチック艦隊は対馬沖に姿を現した。長期の一航海と革命や相つぐ敗戦に、士気の衰えた艦隊は、司令官東郷平八郎の率いる日本の連合艦隊に、二昼夜の激戦の末、一九隻を撃沈され、全滅した。ハルピンの決戦は絶望的となった。講和交渉は急速に本格化した。戦争に動員された日本兵は一〇七万人、うち死傷者だけでも二一万人であった。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月14日 06時16分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[日本と戦争] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X