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2019年06月15日
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カテゴリ:日本と戦争

日比谷焼打ち事件

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

    『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

血あるものは来たれ、涙ある者は来たれ、骨あるものは来たれ、

鉄心あるものは来れ、恥を知るものは来れ。

来り集りて、一斉に卑屈醜辱なる、講和江条約に対する不満の声を、九重の天に揚げよ。

 

この呼びかけが新聞紙上に表れたのは、一九〇五年九月五日、ポーツマス講和条約が調印される日の朝である。昼すぎ、押し掛けた群集は三万人にのぼっていた。日比谷周辺は、すでにこの時から殺気を孕んでいた。「講和問題全国同志大会」は、この空気の中で開幕した。この大会を主催したのは、河野広中、頭山満ら、日露戦争前から満州占領を叫んでいた「対露同志会」の指導者たちである。

講和交渉でロシアから償金と樺大北半郎が割取し得ないことを知ると、戦争の継続を叫び、全国に檄を飛ばしていた。加藤高明が経営する「東京日日新聞」も、元老や内閣の軟弱を攻撃していた。その後ろに三菱をはじめ財閥の要求があったことはいうまでもない。

大会は、条約の破棄や戦争の継続を決議して一応平穏に予定を終えた。しかし、事態は主催者の意図を越えて進んだ。首相桂太郎はかねて下層民が「政治と社会と心を混同」し、車夫や小商人までが動揺していると心配していた。それが群集の行動となって現われたのである。警官が解散を命じたのを契機に、群集は警視総監邸や内務大臣邸に押し寄せ、火を放った。これが暴動の発端であった、政府の御用新聞「国民新聞社」や、平和論を唱えた平民社、キリスト教会などが次々と打ち毀され、警察署が焼打ちされた。暴動は翌日も収まらず、政府は戒厳令を敷き、軍隊を出勤させてようやく鎮圧した。焼き払われたのは交番だけでも二一九、死傷者は官憲四七一名、民衆五五〇名にのぼった。動揺は全国に広がり京都、大阪、横浜、名古屋など大都市で講和反対の集会が開かれ、「責任内閣」の要求も現われた。

この事件は、日比谷大会の主催者の目的と、民衆の要求とがはっきりと違うことを示した。主催者は政府に対し、より強硬な侵略政策を要求したのであるが、民衆は戦争中の以上な苦しみに耐えられなかったのである。事件の前、労働者の間では、これまで「平和になれば酒の一合も飲める」と思って我慢してきたが、講和条件を見て希望を失ったという声が聞かれた。そして焼打ちが始まると、

「この交番は日ごろからうるさいから焼いてくれ」と頼む者も出た。民衆は日頃の不満を爆発させ、権力機構に闘争の鋒先を向けはじめたのである。

 この暴動は革命運動には成長しなかった。しかし、社会主義者たちはこれを評して述べた。

「日本人民は知らず知らずの間に革命の気を養いつつあるものというべし」と。






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最終更新日  2021年04月14日 05時54分27秒
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