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2019年06月15日
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カテゴリ:日本と戦争

アメリカと排日運動

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

    『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

 

一九〇六(明治三九)年三月、西部アメリカ諸州で日本人移民排斥の動きが激しくなった。

翌年二月には連邦政府が排日移民法を制定し、ハワイ、カナダ。メキシコから日本人が合衆国に移住することを禁止した。

日露戦争は、日本とアメリカの関係を変えたのである。

ポーツマスの講和会議を斡旋したアメリカ大統領ルーズベルトは、

「いちばんよいことは、ロシアが依然として日本と対立を続け、勢力を張り合うことである」

とのべていた。しかし講和の成立後、日露の対立は急速に弱まった。ロシアが近東進出に力を注ぐようになり、ドイツとの対立を深めたためである。日本は満州をはじめ、中国大陸の独占支配を企てるようになった。ハリマンの満鉄買収交渉を拒否したことを始め、英・米の船舶が天運・大東溝などで貿易を行なうことや、商人が奉天その他の都市で商業活動を行なうことを拒絶するようになった。

これに対して英・米両国は、同年三月、

「満州の門戸が閉ざされている」

と抗議の覚書を政府に送った。日本帝国主義は、極東支配をめぐって、英・米両帝国主義との対立を深めたのである。アメリカの排日運動はこのために起こったものであった。

しかし、アメリカ政府は対日移民法を朝鮮人や中国人にも適用した。移民法の制定には、もう一つの目的があったのである。

これまでからアメリカの独占資本家は、労働者や市民にアジア人を差別させ、支配の危機を切りぬけてきた。一九〇四年、全国にストライキの波が高まり、大統領選挙に立候補した社会主義者、ユージン・デブスが四二万票も獲得した際、中国人に労働者に対する排斥運動が煽られた。中国人渡航者を厳しく尋問したのち、検疫と称して劇薬を衣服や皮膚にふりかけるなどのことが広く行なわれた。

一九〇三年下半期に、労働運動は再び高揚した。六月にはアメリカ最初の産業別労働組合、I・W・Wが結成され、非熟練労動者・黄色人種・ネグロなどの加盟が認められた。

西部諸州の資本家はこれを壊滅させようと、ステューネンバ-ク暗殺事件を捏造し、警官にI’W・Wの指導者を逮捕させた。抗議のために、「防衛要員会」が組織され、西部一帯の労働者が続々と参加した。排日移民運動が最初に西部で起こったのは、この運動を去勢するためでもあった。

アメリカは、一九〇八(明治四一)年一一月、高平・ルート協定で日本の満州における権益を一応認めた。しかし、鉄道敷設と銀行設立に多くの額の資本を投下し、経済力で満州の利権を奪おうと図った。これに対抗するため日露両国は接近を深め、一丸〇七年七月、「日露協商を締結」した。






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最終更新日  2021年04月14日 05時53分56秒
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