カテゴリ:日本と戦争
期待された日本(日本、ロシアに勝利)
「此の度の日本がロシアに勝ったということは、東方民族が西方民族を打ち破ったことになる。これこそ款喜しなければならないことではないか」 日露停戦の直後、スエズ運河を通過した孫文は、アラビア人からこのように聞かされた。東京に来た彼は、績国留学生を前にして熱っぽくその感激を語った。日露戦争の結果は、アジアの民放独立運動指導者にこのような励ましを与えたのである。 戦争が終わると、日本に期待をいだいて来る者が急増した。中国・朝鮮からの留学生の来日はもとより、ベトナムからも独立運動のフアンボイチャウが渡来し、それを契機にベトナムでは日本留学のブームがまき起こったほどである。ビルマの僧侶オッタマは「現代の日本」と題す著書をあらわし、やがて来日した。インド人民の間にも独立への情熱を呼び覚まし、一九〇五毎八月。ベンガル分割に反対する対英ボイコット運動が開始された。日本では留学生のための教育機関も数を増し、法政大学速成科、早稲田大学清国留学生部などが、多くの外国人学生を育成していた。留学生は中国人だけでも一万人にのぼっていた。 東京は革命の根拠地の観を呈するようになった。とくに中国で革命運動に破れた人びとが、亡命の地を求めて集まったので、清朝打倒をめざす革命家の一大勢力が形づくられた。それは一九○三年、湖南の武装蜂起に失敗した黄興、末敦仁、陳天華ら有力な革命家の指導下にあった。孫文も一九〇五年七月、横浜に着き、宮崎滔天(とうてん)の自宅に宿を取った。彼は一八九四年九月の第一次共和革命に失敗して以来、たびたび日本に亡命し、中国人青年の尊敬の的となっていた。落ち着く間もなく、彼は黄興らと提携し、革命家の統一組織の結成に取りかかった。黄興の率いる華興会、孫文の興中会、章太炎らの光復会がここに合体し、同年八月二〇日、中国革命同盟会が成立した。「外敵排除・独立回復・民国創立・地権平均」が綱領に掲げられ、機関心誌「民報」が発刊され、中国各省で宣伝と組織の活動が展開されるようになった。 これらの革命家と結びつき、資金その他の援助を行なう日本人もいた。頭山満・内田良平ら黒竜台の中心人物や、大隈重信、犬養毅ら財閥と結びつきの強い政治家である。いずれも中国の侵略を企てている者たちで、革命家が政権を握れば、利権が得られると考えたのである。 しかし、日本への期待がうち砕かれる日が来た。ポーツマス条約が結ばれると、日本政府は留学生の活動を取り締り、国会では朝鮮・満州・中国全体を日本に併合すべきだという議論が公然と始められるようになった。この動きに抗議して自殺した陳天華は、遺書にこうしたためた。 「日本を見ならえという諸君、どうか朝鮮を見ていただきたい」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 05時53分14秒
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