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『魏志』倭人伝
現代語訳 『魏志』倭人伝 新訂 魏志倭人伝三篇(中国正史伝(1)) 1951・11・5 編訳者 石原道博・発行者 安江良介 一部加筆 発行所 岩波書店
倭人は帯方(いまの韓国ソウル附近)の東南大海の中に住み、出島によって国邑(諸侯の封地)をつくる。もと百合国。漢のとき朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使訳(使者と通訳)の通ずるところは三十国。 郡(帯方郡)から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国(馬韓)をへて、あるいは南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国(加羅・金海)にゆくのに七千余里。はじめて一海をわたること干余里で、対馬国につく。 その大官を卑拘(彦か)といい、副官を卑奴母離(夷守・火守か)という。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかり。土地は出が険しく、深林が多く、道路は烏や鹿の径のようだ。 干余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北にゆき、米を買うなどする。また南の一海をわたること千余里、舶海(大海、対馬海峡)という名である。 一大国(一支・壱岐)につく。官をまた卑狗といい、副官を卑奴母離という。四方三百里ばかり。竹本・叢林が多く、三千ばかりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北にゆき米を買うなどする。 また一海をわたること千余里で、末盧国(松浦、名護屋・唐津附近)につく。四千余戸ある。山海にそうて居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やあわびを捕え、水は深くても浅くても、みな潜ってとる。 東南に陸行五百里で、伊都国(伯土・糸島郡深江附近)につく。官を爾支(稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(高子・妹子か)・柄梁觚(彦子・日杵か)という。千余戸ある。世々王がいるが、みな女王国に統属する。郡使が往来し、常駐の場所である。東南の奴国(那津・博多附近)まで百里。官を兕馬觚(島子か)といい、副官を卑奴母離という。二万余戸ある。東行して不弥国(宇禰・宇美か)まで百里。官を多模(王・魂、伴造か)といい、副官を卑奴母離という。千余家ある。 南の投馬国(鞘・出雲・但馬、玉名・都万・妻・三池・薩摩か)にゆくには水行二十日。官を弥々(耳・美々・御身か)といい、副官を弥々那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかり。南の邪馬壱(邪馬台)国にゆくには、女王の都するところで、水行十日・陸行一月。官に伊支馬(伊古麻・生駒・活目か)があり、つぎを弥馬升(続松彦か)といい、つぎを弥馬獲支(御間城か)といい、つぎを奴佳鞮(中臣・中跡か)という。七万余戸ばかり。女王国から北は、その戸数や遊里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は還くへだたり、詳しく知ることができない。 つぎに斯馬国(志摩・桜島か)があり、 つぎに己百支国(城辺・磐城・伊爾敷・石城か)があり、 つぎに伊邪国(伊作・伊雑・伊蘇・伊予か)があり、 つぎに都支国(球珠・串伎・榛原か)があり、 つぎに弥奴国(三根・湊・美濃か)があり、 つぎに好古都国(笠沙・各務・方県・河内か)があり、 つぎに不呼国(日置・不破か)があり、 つぎに姐奴国(竹野・田野・多度・谿・角野・都濃か)があり、 つぎに対蘇国(鳥栖・土佐・多布施・遂佐か)があり、 つぎに蘇奴国(彼杵・佐渡・囎唹・佐奈・佐野か)があり、 つぎに呼邑国(鹿屋・麻績かがあり、 つぎに華奴蘇奴国(囎唹・鹿苑・金銀か)があり、 つぎに鬼国(基肆・城・大桑・紀伊か)があり、 つぎに為吾国(遠賀・生葉・伊賀・可愛・佐賀・番賀か)があり、 つぎに鬼奴国(阿久根・桑名か)があり、 つぎに那馬国(八女・海部・山国・野摩)があり、 つぎに躬臣国(合志・菊池・越・御井・櫛田か)があり、 つぎに巴利国(波良・原・尾張・播磨か)があり、 つぎに支惟国(筑城・紀伊・基姉・吉備か)があり、 つぎに鳥奴国(大野・宇土・宇努・安部・小野・魚沼か)があり、 つぎに奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。
これが女王国の境界の尽きるところである。 その南に狗奴国(球磨・河野・隼人・熊襲・城野・毛野・熊野か)があり、男を王とする。その官に狗古智卑拘(菊池・久々智彦か)がある。女王に属さない。郡から女王国までは一万二千余里。
男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨する。 昔からこのかた、その使者が中国にゆくと、みなみずから大夫(卿の下、士の上の位)と称する。夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、会稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ちからだに入墨して蚊竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んでもぐって魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥の危害をはらう。
のちに入墨は飾りとなる。諸国の入墨はおのおの異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある。その道里を計ってみると、ちょうど会稽の東冶(福建閩侯)の東にあたる。 その風俗は淫らではない。男子はみな髪はみずら、木綿を頭にかけ、きものは横幅の広いもの、ただ束ねて連ね、縫いつけることはない。婦人は、髪は束髪のたぐいで、単衣のようなきものを作り、その中央に穴をあけ、頭を突込んで着ている。いね・いちび・麻をうえ、蚕を飼い、糸を紡ぎ、細絆(いちび、ほそあさの布)・縑(かとりぎぬ・きぬ)・綿を生産する。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鶴(こまがらす・かささぎ)はいない。兵器には矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃、あるいは骨の鏃である。風俗・習慣・産物等は、儋耳(広東儋県)・朱崖(広東瓊山県)と同じである。 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みなはだし。屋室があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。 朱をからだに塗るが、中国で粉を用いるようなものだ。 飲食には高坏をもちい、手で食べる。 人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)はなく、土を封じて塚をつくる。 死ぬとまず、喪に服するのを停めて仕事にしたがうこと十余日、その期間は肉を食べず、 喪主は泣きさけび、他人は歌舞・飲酒する。 埋葬がおわると、一家をあげて水中に詣り体を洗い、連沐(ねりぎぬをきて水浴する)のようにする。 その行末や渡海、中国にゆくには、いつも一人の男子に、頭をくしけずらず、虱が湧いてもとらず、衣服は垢で汚れ、肉を食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰と名づける。もし行く者が古善であれば、生口(倭の留学生・捕魚者・捕虜・奴婢・動物など)や財物をあたえるが、もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。
真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には枏(くす)・抒(とち)・予樟(くすのき)・楺(ぼけ)・樫(くりぎ)・投(披?すぎ・かや)・橿(かし)・鳥号(やまぐわ)・楓香(おかつら)がある。竹には篠(しの)・簳(やだけ)・桃支(かづらだけ)がある。 薑(しょうが)・橘(たちばな)・椒(さんしょう)・蘘(みょうが)があるが、それで味のよい滋養になる 物をつくることを知らない。獮緱(さる・おおざる)・黒雉がいる。
その習俗は、挙事(事をあげ行う、事業や仕事をはじめる)や往来などの時は骨を灼いてトし、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、火のさけ目をみて兆(しるし)を占う。 その会同・坐起には、父子男女の別はない。人は酒好きである。大人の敬するところをみると、ただ手を打って跪拝(ひざまずき拝する)のかわりにする。 その人は長生きで、あるいは百年、あるいは八、九十年。風習では、国の大人はみな四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、やきもちをやかず、盗み掠めず、訴えごとは少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一家および宗族を滅ぼす。 身分の上下によっておのおの差別・順序があり、たがいに臣服するに足りる。租賦(ねんぐ・みつぎ)を収める、邸閣(倉庫・邸宅・商店など)があり、国々に市がある。貿易をおこない、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させる。
女王国から北には、とくに一大率(王の士卒・中軍)をおき、諸国を検察させる。諸国はこれを畏れ憚かる。つねに伊都国(恰土)で治める。国中に刺史(政績奏報の官)のようなものがある。 王が使者を遣わして京都(魏都洛陽)・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国に使するときは、みな津に臨んで捜露(さがしあらわす)し、文書・賜遣の物を伝送して女王にとどけ、差錯(いりみだれまじわる)することはできない。 下戸が大人と道路で互いに逢うと、躊躇って草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいは跪、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫といい、それは、然諾(承知)の意味である。
女王 卑弥呼 その国は、もと男子をもって王となし、住まること七・八十年、倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。 卑弥呼という名である。鬼道に仕え、よく衆を惑わせる。年はすでに長大だが、夫婿(フセイ)はなく、男弟がおり、佐けて国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、婢千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入する。宮室・楼観(楼閣・たかどの・ものみ)・城柵を厳かに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。
女王国の東、海を渡ること干余里、また国があり、みな倭種である。また侏儒(こびと)国がその南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里。また裸国・黒歯国がその東南にある。船で一年がかりでつくことができる。倭の地を参問(まじえとう・てらしあわせたずねる)するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである。
景初二年(明帝、二三八)六月、倭の女王が大夫難升米(田道間守か)らを遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。 その年十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、
親魏倭王卑弥呼に勅を下す。帯方の大守劉夏が、使を遣わし、 あなたの大夫難升米・次使都市牛利(出石心・都我利)を送り、 あなたが献じた男生口四人・女生口六人・班布(木綿 の有・さらさの類) 二匹二院を奉じて到来した。あなたはるかに遠いが、そこで使を遣わして貢献した。 これはあなたの忠孝であり、わたしは甚だあなたを愛しく思う。 いまあなたを親魏倭王となし、金印が廓(むらさきのくみひも)を仮りに与え、 装封して帯方の大守に付し仮りに授けさせる。 あなたは、種人(同一種族の人・異族の夷秋)を安んじ労わり、勉めて孝順をせよ。 あなたの来使難升米・牛利は、遠路はるばるまことにご苦労であった。 いま、難升米を率善中郎将(五官・左右三署の長官)となし、 牛利を率善校尉(宮城の宿衛・侍直)となし、銀印青綬を仮りに与え、 引見労賜(ねぎらって物をたまう)し遣わし還す。 いま絳地(濃いあかぢ、また緑綈のあやまり、俤はつむぎ・あつぎぬ) 交竜錦(絞竜の模様のある錦)五匹・ 絳地纔粟劚(ちぢみの栗紋のあるうおあみ・けおり・もうせん)十張 ・蒨絳(あかね・深紅色)五十匹 ・紺青(こんじょう・ぐんじょうの一層濃いもの、金青・空青) 五十匹をもって、あなたが献じた貢物の直に答える。
また、特にあなたに紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹 ・金八両・五尺刀二目・銅鏡百枚・真珠・ 鉛丹(道家で鉛を練って作った丹、炭酸鉛・紅色結晶性の粉末) おのおの五十斤を賜い、みな装封して難升米・牛利にわたす。 遣り到着したら目録どおり受けとり、ことごとくあなたの国中の人に示し、 国家(魏)があなたをいとしく思っていることを知らせよ。 故に鄭重にあなたに好物を賜うのである。と。
正治元年(斉王芳、二四〇)、太守弓遵は、建中校尉梯擕らを遣わし、詔書・印綬を奉して倭国にゆき、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛(黄金と絹帛、金繒)・刀・鏡・采物(采色文章を施したもの、旌旂衣服などに品級によって異なる彩色を施す)を賜わった。 倭王は、使に因って上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝した。 その四年(二四三)、倭王はまた使者の大夫伊声耆・掖那拘(伊佐我・伊佐波・伊佐賀・伊蘇志・少子か)ら八人を遣わし、生口・倭錦・緑青縑・綿衣・帛布(きぬとぬの)・丹・木狙(附?弝・ゆづか)・短弓矢を献上した。掖那拘らは率善中郎将の印綬を拝受した。 その六年(二四五)、詔して倭の難升米に黄幢(きいろのはた)を賜い、郡に付して仮りに授けた。 その八年(二四七)、大守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、拘奴国の男王卑弥弓呼(卑弓弥呼?彦尊か)ともとから不和である。倭〔の〕載斯鳥越(須佐・佐世、出石・伊蘇志大兄か)らを遣わして郡にゆき、たがいに攻撃する状況を説明した。塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黄幢をもたらし、難升米に仮りに授けて、檄(ふれぶみ・めしぶみ)をつくってこれを告喩(つげさとす)した。
卑弥呼が死んだ。 大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死する者は奴婢百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。おたがいに誅殺(罪をせめ、罪にあてて殺す、誅術・誅残)しあい、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女壱与(台与か)という年十三のものを立てて王とすると、国中がついに平定した。政らは檄をもって壱与を告喩した。壱与は倭の大夫率善中郎将液邪狗ら二十人を遣わし、政らの還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)にゆき、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青天勾珠(まがたま)二枚・異文(あやを異にする)雑錦二十匹を貢した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月14日 05時49分58秒
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