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2019年06月17日
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カテゴリ:日本と戦争

日本の大陸進出

 

『検定不合格 日本史』家永三郎氏著 三一書房 1974 一部加筆

第4編 近代社会の発展

第2章 曲折する近代化

 

帝国主義の世界

 

日本が世界の国際場裏に登場したころから,欧米列強は再び植民地獲得の運動に乗り出してきた。

資本主義経済の発達がその極に達し,生産の集中が進み,金融資本の独占の段階にはいった欧米列国は,単に原料資源と商品の市場としてばかりでなく,資本を投下すべき地域を占拠しようとして、アジア・アフリカ・オセアニア等の後進地帯の獲得を競い始めた。

自由貿易主義は 後退し,列強の間には軍備拡張の競争と植民地の争奪戦が続いた。19世紀の末から20世紀の初めにかけて,アフリカ大陸はほとんどイギリス・フランス以下のヨーロッパ諸国によって分割されてしまった。

 イギリスはすでにインドを完全に植尺地とし、1886(明治19)にはビルマを合わせ,1888(:明治21)にはマレー一半島を得てシンガポール港を建設した。

フランスは1884(明治17)清国と戦い、翌年インドシナの偏有権を確保した。ロシアは中央アジアに進出していた。

 列国のこのような帝国主義の政策は,目覚めた日本に弱肉強食の世界であるという印象を強く与えないではいなかった。自由民権論者は国内において民主主義改革を主張すると同時に,国際的には国家の独立を強調する国権論を叫ぶのを忘れなかった。その間にしだいに発達してきた目本の近代産業は,国内市場の狭いために早くから海外に市場を求めざるをえなかった。

こうした内外の事情に基づき,一つには国防上の見地から、一つには経済上の目的から、日本は東洋の経済的後進地帯、特に最も手近な朝鮮に進出しようと試みることになったのである。

 

   日清戦争

 

 朝鮮は久しく中国に臣従し,治国もまたこれを属国として扱った。朝鮮国内には諸国に忠実に仕え,保守政治を維持しようとする事大党と,日本の指導を受けて国内を革新しようとする独立党の対立が生じた。これが朝鮮における出日清両国の覇権の争いとからんで,1882年(明治15年)・1884年(明治17年)と2回も朝鮮に事変が起った。

日本は朝鮮に進出するために清国の勢力を駆逐しなければならなかった。日本は朝鮮の独立を主張し,これを属国と主張する清と争い,ついに1894年(明治27年),日清戦争が始まった。戦いはその翌年にかけて行われたが,列国の予想を裏切って,日水軍は大勝し,朝鮮・旅順・威海衛等を占領し,清国の海車を撃滅した。清国は李鴻章(りこうしょう)遣わして和を求めたので,下関で講和粂約を結んだ。清国は朝鮮の独立を認め,遼東半島と台湾および(ほう)()島を目本に割譲し,約3億円の償金を支払うことを約束した。

これを見たロシアはドイツ・フランス両国とともに三国干渉を行って,日本に遼東半島の還付を強要した。

日本は止む無くその申し入れに従い,改めてわが国から半島を靖国に還付した。

 

明治15年,京城で,朝鮮の兵士と市民が暴動を起し、日本大使館を襲った。日本と清国は朝鮮に出兵し,日本は償金を出させて,局を結んだ。17年には,独立党が日本公使らの後援のもとにクーデターを企て,清国軍に破られて失敗した。日清両国の国交は危険に瀕したが,両国は天津で条約を結び,今後朝鮮に出兵するときは互に通知することを約束して,かろうじて衝突を回避した。

 

 日清戦争の始まった年,外務大臣陸奥宗光(1844~1897)はまずイギリスとの改正条約調印に成功し,やがて他国にも及んで,はじめて治外法権を撤廃せさることができたのである。日清戦争の勝利によって,列国はいよいよ日本の国力を見直すようになった。

清国も戦いに敗れたが,わが国を深く恨むことなく,かえってわが国勢の発展の目覚ましいことを悟った。この頃から清国人の日本に留学する者が多数を数えた。

 これまで日本が常に中国を先進国としてその文化を学んできたが,今や主客ところを換えるに至ったのである。

 

列国の中国進出

老大国清が日本に敗れてその弱体を暴露したことは,植民地拡張をねらっていたヨーロッパ列強の乗ずるところとなった。

1898年(明治31年)

ドイツは膠州(こうしゅう)湾を,

口シアは目本に還付させた旅順・大建を,

イギリスは威海衛を,

翌年フランスは広州湾を

それぞれ競って租借(そしゃく)し、またそれぞれ中国の内地に 特殊利権を得た。アメリカも,アメリカ大陸以外のことに口出ししないというモンロー主義を捨て,1898年(明治31年)には、ハワイおよびフィリピンを併合したが,ヨーロッパ列強の中国領土進出を見て,

 1899年(明治32年),清国について門戸開放・機会均等の原則を提唱している。

列国の進出を受けた清国では,自覚した政治家「康有為(こうゆうい)らによる国政改革の企てが行われたが,他方列国の態度を憤る排外の徒が 起り,1900年(明治33年)には義和団の暴動となった。日本をはじめ,列国は,公使館・居留民を救うため北京に兵を出した。これを「北清事変」と言う。






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最終更新日  2021年04月14日 05時45分01秒
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