2295348 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年06月23日
XML

不思議物語  甲州「縁故節」と「島原の子守唄』

 

  はじめに

 前号で紹介した手塚洋一先生と郷土の本を創っておられる『山梨ふるさと文庫」の紹介を先にさせていただきます。

  

 山梨県の民謡界の第一人者である手塚洋一先生が上記の件について具体的に見解を示している本がある。(前号)それは地域の歴史などを独特の視点で切り込んでいる「山梨ふるさと文庫」から発刊されている『山梨の民謡』である。私の手元には「山梨ふるさと文庫」の刊行本が多数あり、最近も東京の同級生が欲しいというので、書店を探して該当する本を贈ったら大変喜んでいた。今後もどんな本が発刊されるか楽しみにしているとともに今後の活躍を期待したい。

 

手塚先生は、『山梨の民謡』の紹介によると、大正9年(1920)岡山県和気郡山田村(現佐伯町)に生まれ、関谷中学校を卒業し立正大学・東洋大学を経て、長野県、山梨県で中学・高校・特殊学級で教職に就く。

 その著書は

  『郷土史指導資料』

  『郷土史事典 山梨』

  『山梨県知名大辞典』

  『六郷町誌』

  『上九一色村誌』

 の多数に及んでいます。また先生は私の住む北杜市を代表する郷土研究者です。

 また、山梨県教育委員会発行の『山梨県の民謡』(昭和58年)は詳細のわたって山梨県の民謡を採録してある好著で、この編著も先生の手によるものです。この本には多数の珍しい山梨の民謡や歌謡が 採録されているので、いずれ紹介していきたい。

 ……郷土を知る意味でも…………

 

  『山梨の民謡』 42頁 11、縁故節

 

  縁で添うとも 縁でそうとも

  柳沢いやだヨ

   (アリャセ- コリャセ-)

  女が木をきる 女が木をきる

  茅を刈る ションガイナ-

   (アリャセ- コリャセ-)

 

  河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ

  鐘が鳴ります 七里岩

 

  縁の切れ目に このぼこできたヨ  ぼこ=小さな子供

  この子いなぼこ 縁つなぎ

 

  縁でありゃ添う なければ添わぬ

  みんな出雲の 神まかせ

 

  駒の深山で炭焼く主は

  今朝も無事だと 白煙

 

  来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど

  むるいお茶でも 熱くする。

 

 (注解は省略)

 

 筆註…

 植松逸聖翁の「縁故節」と「島原の子守唄」については同じ『中央線』に次の筆著が見える。

 ますやま栄一氏著 「著作権侵害騒動の渦中で遂に露呈された事実」

  『中央線』第24号

 植松逸聖氏著   

「縁故節四方山話」

   「島原の子守唄は縁故節の盗作」(1)

   「島原の子守唄は縁故節の盗作」(2)

   「島原の子守唄は縁故節の盗作」(3)

   「島原の子守唄は縁故節の盗作」(4)

 

 「島原の子守唄」は、盲目の作家宮崎康平氏によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。

 

  おどみゃ 島原の

  おどみゃ 島原の

  ナシの木育ちよ

  何のナシやら

  何のナシやら

  色気ナシばよ ショウカイナ

  はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ

  鬼(おん)の池ん久助どんの   

連れんこらるバイ

 

  帰りにゃ寄っちょくれんけ 

  あばらやじゃけんど

  唐芋飯ゃ粟ん飯 といもめし

  黄金飯ばよ ショウカイナ

  嫁ごん紅な誰がくれたべん

  唇(つば)つけたならあったかろ(以下略) 

 

3番4番は「唐ゆきさ」んとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。

 

 《筆註》 島原の子守唄の変遷

 

 私の手元に一冊の本がある。それは昭和44年に発行された「郷土資料事典」『長崎県・観光の旅』がそれである。

  

からゆきさんと島原の子守唄 現在の島原の子守唄(HP)  『長崎県・観光の旅』

 

おどみゃ島原の おどみゃ島原の

 ナシの木育ちよ

何のナシやら 何のナシやら

色気なしばよ しょうかいな

早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ

(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

 

帰りにゃ 寄っちょくれんか

帰りにゃ 寄っちょくれんか

あばら家じゃけんど

芋飯(といもめし)ゃ粟(あわ)ン飯 芋飯ゃ粟ン飯

黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな

嫁御(よめご)ン 紅()ンナ 誰()がくれた

唇つけたら 暖()ったかろ

 

沖の不知火(しらぬい)に 沖の不知火に

消えては燃えるヨ

 バテレン祭の バテレン祭の

笛や太鼓も 鳴りやんだ

早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ

早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ

 

(1)

おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の

梨の木 育ちよ

何の なしやら 何の なしやら

色気なしばよ しょうかいな

 はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい

鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい

 

(2)

帰りにゃ 寄っちょくれんか 

帰りにゃ 寄っちょくれんか 

あばら家じゃけんど

唐芋飯しゃ 粟ん飯 唐芋飯しゃ 粟ん飯

  黄金飯ばよ しょうかいな

  おろろん おろろん おろろんばい

  おろろん おろろん おろろんばい

 

(3)

  山ん家はかん火事げなばい 

山ん家はかん火事げなばい 

サンパン船はヨロン人

  姉しゃんな握(にぎ)ん飯で 

姉しゃんな握ん飯で 

  船ん底ばよ しょうかいな

泣く子はガネかむ おろろんばい 

アメガタ買うて ひっぱらしゅう

 

(4)

  姉しゃんな何処行たろかい 姉しゃんな何処行たろかい

青煙突のバッタンフル

は何処 んねきぇ 唐は何処んねきぇ

海の果てばよ しょうかいな

早よ寝ろ 泣かんでおろろんばい

  おろろん おろろん おろろんばい

 

(5)

あすこん人は二ちも あすこん人は二ちも

金の指輪 はめちょらす

金な何処ん金 金な何処ん金

  唐金げなばい しょうかいな

嫁御ん紅な 誰がくれた

唇つけたなら 暖ったかろ

 

(6)

  沖の不知火 沖の不知火

  燃えては消える

  バテレン祭の バテレン祭の

笛や太鼓も鳴り止んだ

  おろろん おろろんおろろんばい

  おろろん おろろんおろろんばい

 

 

 

両唄を比べてみれば一目瞭然であるが、『長崎県・観光と旅』から大幅な改編があったことが分かる。特に一番の歌詞は数行を残してほとんど消失してしまっている。私には音楽や民謡のことはわからないけれども、現在の『島原の子守唄』は度重なるレコ-ド化を経て精練されていったのかも知れない。これは資料が集まればその過程が解明できる。

 

  ここで、これまでの経過を一度「年表形式」で整理してみる。

 

◎印 山梨県側 ・「縁故節」

○印 宮崎康平氏・「島原の子守唄」

 

○宮崎康平氏生まれる。

大正 3年(1914)

 長崎県島原に生まれる。

◎縁故節

大正13年(1924)

 韮崎の有志によって、登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。

 縁故節は白鳳会の宣伝のために、前記3名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌わ

 れていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。

◎縁故節

昭和 3年(1928) 9月8日 

 東京中央放送局(現NHK)から、放送事業開始3周年記念番組民謡の部に山梨県代表として「縁故節

 」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。

◎縁故節

昭和10年(1935)11月20日

 再び東京中央放送局から放送された。

昭和12年の暮れ

 甲府放送局開局記念として「縁故節」が全国放送された。

○宮崎康平氏

昭和15年(1940)

 早稲田大学卒業。長兄の死により長崎に戻り土木業社長・島原鉄道取締役に就任する。

○宮崎康平氏

昭和25年(1950)~

昭和30年(1955)  この間に宮崎康平氏「島原の子守唄」を製作。(手塚洋一先生談)

 失明。離婚。

○島原の子守唄

昭和30年(1960)

 9月 長崎市勝山小学校で開催された第3回「九州のうたごえ」に島原地区有志が、混成合唱で「島原の子守唄」を歌っている

○島原の子守唄

昭和32年(1957)

 森繁久弥が舞台「風雪30年」の中で歌う。

○島原の子守唄

昭和33年(1958)

 島倉千代子の歌でレコ-ド化。

○島原の子守唄

昭和35年(1960)

 ~36年(1961)頃、西日本新聞主催全九州民謡コンク-ル人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。

○宮崎康平氏

昭和42年(1967)

 『まぼろしの邪馬台国』出版。その中で「島原の子守唄」の製作に触れる。

○島原の子守唄

昭和44年(1968)

 「郷土資料事典」『長崎県・観光の旅』に「島原の子守唄」が掲載される。(前述)

◎植松逸聖(和一)氏

昭和47年(1972)

 「縁故節四方山話』で「島原の子守唄」は「縁故節」の盗作と発表。

 

◎石川某氏(山梨県人)

昭和54年(1979)  

  8月14日 「縁故節」と「島原の子守唄」の類似性について、

 NHK会長坂本朝一氏に手紙で質問する。

○NHK会長坂本朝一氏

昭和54年(1979)

  9月 『文芸春秋』に随筆「オロロンバイ」が掲載にされる。

 

昭和54年(1979)8月28日 

 「縁故節」と「島原の子守唄」の類似性について、NHK会長坂本朝一氏に手紙で質問したものを、N

 HK会長坂本朝一氏が質問の手紙を宮崎氏に転送しそれに答える「宮崎康平氏書簡」

 

●宮崎康平氏昭和55年(1980) 

 宮崎康平氏、卒。

 

 ここまでで、一目瞭然としているのは、その創作年次かいっても「縁故節」が「島原の子守唄」を模倣することはないということは誰でもわかることである。

 これについての資料はあと二編提示するが、年表でわかるように、戦争時の空白が大きな鍵を握っていると考えられる。この期間は日本列島が民謡などに浮かれている時代ではなかったはずである。ましてや長崎は軍港として役割もあり、人の出入りも激しかった。長崎の人と山梨の人が同じ部隊に居た可能性も十分に考えられる。宮崎耕平氏も大学を出て間もないこの時期、兵役にはつかなかったのだろか。

 

 私は民謡の類似性や宮崎康平氏の功績についてどうこういうつもりはまったくない。小さな山梨県の誇りでもある「縁故節」が長崎の「島原の子守唄」に変わっていっても、それは好ましいことであるが、最近山梨からもそれぞれの目的で長崎を訪れる人が多くなっている。「島原の子守唄」を聞いても「縁故節」との類似性に気がつくことは少なくなってきていると思われる。それは長崎の人々のようにひたすら「島原の子守唄」愛し親しみ愛唱するような風潮は山梨には見られない。

 そうした中で「縁故節」に地域復興をかけた山梨県人が居たことを理解していただきたい。先人の努力と「縁故節」のためにこの記事を掲載している。

 最近山梨では年配者はともかく、地域の人さえ「縁故節」を忘失している。例え経緯がどうであっても、同じメロデイ-がこの日本に存続していることはうれしい限りであり、これが民謡の原点なのかも知れない。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月13日 12時34分57秒
コメント(0) | コメントを書く
[韮崎市歴史文学資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X