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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月23日
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  縁故節と島原の子守歌 その一

 

序に変えて

私は民謡の世界のことは全くの無知ですが、子供の頃からの住む北巨摩郡(現在は北杜市)の盆踊りなどには必ず唄われていた記憶があります。
 レコ-ドでなく老若男女の夜空に消え入るような、どこか空しい曲が、今でも脳裏に焼き付いています。
 はるか前ですが、テレビ番組の中で、「島原の子守歌」が流れていました。おや、この曲は「縁故節」ではないのか、と不思議に思いました。その時は、忙しいのに感けていましたが、久しぶりに地域職豊かな『中央線』をひろげて見ると、植松逸聖翁の「縁故節四方山話」が目に留まりました。

 民謡や民話は全国津々浦々、同じような曲や歌詞が有るといわれています。民話や伝承それに地域行事でさえも、その類似性は数多く見受けられます。しかしその発生過程については、明らかに盗作や真似作と思われるものもあります。「島原の子守唄」はこうした意味合いからは、大きな関心があります。
 作られた時期は明らかに山梨の縁故節のほうが早く第二次世界大戦を経て、「島原の子守唄」が作られたのですから、明らかに「模倣性」が認められます。
 模倣の経過については別記してありますから参考にしていただくとして、私見としては、この両者の間に挟まっている戦争が起因していて、戦争に駆り出された人々は戦地で一緒に戦い信頼関係を深め、お互いの国の民謡や民話が多くの兵士の慰めになったと考えられます。おそらく宮崎康平氏も、こうした関係者から何かの折に山梨の縁故節を聞いて島原子守唄の製作に役立てたと思います。
 私が最も気になったのが、メロディーの類似性だけではなくて、歌詞にも及んでいます。

   特に、

  「島原の子守歌」は邪馬台国の研究者でもある宮崎康平氏の作詞作曲です。 時代の移り進み、一部編曲に古関祐而氏も関わり、本家の「縁故節」より「島原の子守唄」の方が有名になり、「縁故節」の制作者たちは、必死に「縁故節」が先で、「島原の子守唄」は盗作であると訴えましたが、宮崎康平氏は逆に「縁故節」の方が「島原の子守唄」の盗作であるとして、すでに著作権を設定していました。
 その後「島原の子守唄」は観光や産業に果たす役割も大きく、現在ホ-ムペ-ジで索引すると、その数は多く「縁故節」を圧倒しています。
 民話や伝説それに民謡などは、各地に同じようなものがあり、どこが先かは分からないものです。民謡でも一つの唄に、その地方の地唄の一部を加えて地域の人に伝承されていくことは、ごく自然の成り行きだと思われます。
 しかし「縁故節」と「島原の子守唄」はそんな昔の話ではないのです。
 そこで、今回「縁故節」や山梨県の民謡を愛して止まない韮崎市の植松逸聖翁の奮戦ぶりを中心に、その他の資料を絡めて当時を偲んでみることにしました。「縁故節」の復活を願いながら。

… 参考資料…

 植松逸聖著 『中央線』「第8号」
 (一部の語句を訂正) 郷土研究  1972年(昭和47)刊行

 この唄は、「縁故節」の中でも一番代表的な唄で、誰しもが「縁故節」を唄う時、一番先に喉をついて出るのがこの歌詞である。
 「縁故節」は、数多い甲州民謡のうちでも最右翼の方であって、何回もラジオやテレビで放送され、レコ-ドにもなって、各レコ-ド会社から発売されており、現在発行されている民謡集の中にも必ず掲載されていて、全国的に有名であることは、今更言う迄もないがことだが、たまたまそのメロデ-が「島原の子守唄」によく似ているところから、「縁故節」は島原の子守歌の盗作ではないかとか、
九州の「隠れキリシタン」が、甲州に移り住んで、「島原の子守唄」を教えたので、それが「縁故節」のメロデ-のもとになったとか、色々な風説が流れ、またそれを肯定するような書物も現れて、一時は「島原の子守唄」説にすっかり惑わされた状態になった。これは最近九州旅行を終えて帰って来た人達が、旅行中のバスの中で聞いた、ガイドの「島原の子守唄」を聞いて、あまりにも「縁故節」に似ているところから自分の耳を疑い、不思議に思って色々憶測をめぐらした結果から、そんな事になったことゝ思うが、「縁故節」は生粋の甲州生まれで北巨摩育ちで、「島原の子守唄」の盗作でも模作でも無い。
 「島原の子守唄」こそ戦後の作品であって、「縁故節」とは年代が遙に違うことを先ずもって明記して、これから「縁故節」がどうして発生し、発展して来たか、これにまつわる四方山の話を交ぜながら書いて見たいと思う。

大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブ-ムが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。
 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコ-ド会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。
  こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたまゝで、僅かに、
「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。
 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。
 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしたからである。初代の白鳳会快調に就任した人は、小屋忠子氏であった。小屋氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄も唄う風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違はれたというか、本人は斗酒尚辞せずという剛腹な人で、カイゼル髭をたくわえた立派な紳士であった。
 幹事長は、韮崎郵便局長の柳本経武氏、とても世話好きの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小屋会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄もうたうし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に十地の人情風俗を織りこんでうたい、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。

 昔から北巨摩地方で、

  サアサえぐえぐ ジャガタラ芋はえぐいね 
  中で青いのは なおえぐい 

シヨンガイナー

と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロディーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。
 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。
 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違はれたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓につゞいての存在てあったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。其時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同じものを二ケ月連続していくことはなかった。而も、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいうお若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古はきびしかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。
 そんな芸妓を、小屋氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄わせて新しい民謡をつくり出そうと努力しておられた。
 一応唄の形が出来あがったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。
 うたい始めに「アリヤセーコリヤセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも縁で添うとも」と唄に人って同じメロデーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。「柳沢はいやだよ」と変化して「アリヤセーコリヤセ」と前の噺子言葉で結んでいる。あとの「女が木を切る」から、シヨンガイナー迄同じメロディーの繰返しである。
 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、 起から愛の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。
始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロデーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。
 「五度上げるとはどうゆうことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロディーが決定したのである。
 「踊りもあることだから」と言はれて、四拍子に作譜することを命ぜられた。

 扱、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサ・えぐえぐ」と唄ったのを、「サアサえんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当字をした。それが何時の問にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。
 毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小屋氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ-ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。

 縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがある。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変賑やかな人で自分のことを「おらあ降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。
 以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。
 これが縁故節の、全国へ名乗りをあげた第一歩であった。
 それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。
 二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。

其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして帰る予定だったが、突然ビグターレコードから電話かかって来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。
 その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を間いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。
 早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変ほめてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。其后ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。かえすがえすも残念なことであった。
 昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。
 それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。

  「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」

 と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。

歌詞「柳沢いやだよ」

 柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い地区である。
 徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を欲しいまゝにした柳沢吉保の先祖の地である。
 柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である。兵部丞信俊にいたる迄居を構えておったといわれている。
 宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生組釆を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。
 其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にわやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は二つあるようである。第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかっにので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄にたくしたものだというし、第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労すろところであるからという。第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。
 昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来に。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるベきか、削除すべきかということで、柳沢の人達の意見を間いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。

 

縁故節と島原の子守歌 その二

 

 もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州では此芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。
 ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「えごい」と云う。その「えぐい、えぐい」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないかいわばジャガタ芋は「えぐえぐ節」の生みの母であるかもしれない。

 このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。
当時は明治維新で、徳川幕府の禄を得ていた武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。
 本県でも、日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた」。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。
 現在、日野春駅の西方300メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの日埜原碑というのか建っている。其后富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。
 富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガヤを作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、蹄らせたのが、えぐえぐ節のはじまりであるといっているが、日野春への入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事てある。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九川の浪人ばかりではなかったことになる。
  民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多く、えぐえぐ節もジャガタラ芋と一緒に生れ仁のではないかと推察されてよいと思う。
 扨、えぐえぐ節の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、えぐえぐ節の「語呂」は古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。

古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「締打唄」身延山の碑詠歌が変化したものと思はれる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で「七五五七四」の二十八文字である。田の草節に例を取れば、 というようである。

  埼玉県地方の民謡「麦打唄」も

  矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。
 これに引きかえ、えぐんぐ節は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になった元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前でうたうので「神ん句」と云ったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。
 したがって、えぐえぐ節は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。
 若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのでわないだろうかと推察される。

 えぐんぐ節は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれていったようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。
 「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロデーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。
こう考えると、えぐえぐ節の発生年代が大体わかるようで決定づける事は大変難しいが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後ではあるまいかと出思う。

 最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者である宮崎康平氏である。
 これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。
 昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。
 その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。
 島原の子守唄は、

おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ
ハヨ寝ろ泣かんでオロロンバイ 鬼の池に久助どんの
連れん米らるバイ

 というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。
 「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。
 結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。
 然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に値するものがある。
 翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。
  最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。

……参考資料……ふるさと文庫所収

   縁で添うとも 縁で添うとも
 柳沢いやだヨ
 (アリャセーコリャセー)
 女が木をきる女が木をきる
 茅を刈るションガイナー
 (アリャセーコリャセー)
 河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ
 鐘が鳴ります 七里ケ岩
 縁の切れ目に このぼこできた
 この子いなぼこ 縁つなぎ   
 縁がありゃ添う なかれば添わぬ
 みんな出雲の 神まかせ
 駒の深山で 炭焼く主は   
 今朝も無事だと 白煙
 来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど
 ぬるいお茶でも 熱くする

 註  

    • 柳沢……武川村柳沢。もとは駒城村(現白州町ヽ釜無川の支流大武川の右岸で、鳳風山麓の山村。柳沢吉保の先祖の出身地。
    • 七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。長野県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。
    • ぼこ……甲州方言。赤ん坊・子供。
    • いなぼこ……変な子。妙な子。
    • 駒の深山……甲斐駒ケ岳

 「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座興唄である。

 この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。大正十一二年韮崎の有志によって、町を、鳳岱山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。
 初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲は陽旋律から陰旋律に変化した。この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。
 このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。ラジオ放送に踊りがついていたのは、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。
 続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。

 この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。
 このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ-ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。

一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。古歌

  「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」

 と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。

  「甲斐人の嫁にはならじ云云」

 は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。

 しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。
「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。
 歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。

 両者の関係については、「縁故節」が「えぐえぐ節」を元唄として作られた時、その仕事に参加した唯一の生存者である植松和一氏(号逸聖、山梨県三曲連盟会長・韮崎市在住)が、同人誌『中央線』に、前後四回にわたって連載した「島原の子守唄は縁故節の盗作」の中で、概要は述べられているが、改めてとりあげたい。
 ただし、「島原の子守唄」の作者宮崎康平は、昭和五十五年三月に死亡しておられるので、この問題をとりあげることは、死者にむち打つことにもなりかねないが、それは筆者の本意とするところではない。しかし、事実は事実として明らかにしておかなければならない。
 「縁故節」成立の由来については、「縁故節」の項で述べたし、前記植松氏の「縁故節四方上話」(『中央線』第八号)に詳細が述べられている。
 「島原の子守唄」は、宮崎の作家宮崎康平によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。

おどみゃ島原の
おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら
何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼の池ん久助どんの
連れんこらるバイ
帰りにや寄っちょくれんか
あばらやじゃけんど
唐芋飯ゃ粟ん飯
黄金飯はよ ショウカイナ
嫁ごん紅( )な誰がくれた
( )つけたならあったかろ(以下略)

 三番四番は、唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。

 作者の宮崎康平は、大正六年島原市生まれ。本名は一章。早稲田大学文学部卒。在学中東宝文芸課に入社、文芸・演劇活動を行った。昭和十五年長兄の死により島原に帰り、家業の南旺土木社長・島原鉄道取締役として経済的手腕を発揮する傍ら、九州文学同人としても活躍したj昭和二十五年過労がもとで失明、続いて乳呑児を残して妻に逃げられる等の不幸もあったが、その中発表した『まぼろしの耶時台国」によって新婦人和子氏と共に、第一回吉川英治賞受賞した。(講談社版『日本近代文学人字典』)
島原の子守唄が作られた時期は明確ではないか、昭和三十九年九月長崎市勝山小学校で開催された「第三回「九州のうたごえ」島原地区有志が、混声合唱で「島原の子守唄」を歌っているので、昭和二十五年から三十年にかけて、彼の家庭的不遇の時代の作と考えるのが妥当であろう。
(彼自身は戦中の作といっているが、そのことについては後述する)
 昭和三十二年早大時代の友人森繁久弥か舞台劇、「風説三十年」の中でこの唄を歌い、昭和三十三年島倉千代子子の歌でレコード化。昭和三十五年、六年頃西日本新聞社主催十全九州民謡コンクール人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。もっとも、この投票には大々的な集票工作が行われたといわれている。
              (ルポライターますやま栄一氏の調査『中央線』第二十四号)
 
 この唄が電波にのる様になってから、これを聞いた山梨県人は、「縁故節」との類似に驚き、直接あるいは間接に両者の関係の糾明に間心が持たれた。
 このことについて、昭和五十四年八月二十八日付、石川某(山梨県人)宛宮崎康平宛の書簡(以下宮崎書簡という)があり、氏自身の見解が示されているので、それを中心に考察を加えたいと思う。
 宮崎書簡は、「文芸春秋」昭和五十四年九月号誌上に掲載された、当時のNHK会良坂本良一氏の随筆「オロロンバイ」に対する、石川某氏の疑問に答えたものである。
 坂本会長の「オロロンパイ」は、同氏がソヴィェトを訪問した際ヽモスクワでの歓迎レセプションの席上で、随員の歌田氏が「島原の子守唄」を歌ったところ、歌詞の中のオロロンバイは、ソ連領コーカサス地方では揺り篭を意味するところから、子守唄と揺り竜の間連の不思議さに喝采を博したというものである。その随筆の中で、坂本会長が、島原の子守唄を友人宮崎康平作詞作曲(坂本会長と宮崎氏は早稲田の学友)と紹介したことに対して、「島原の子守唄」を古い伝承民謡と理解し、「縁故節」との酷似を不思議に思っていた石川某氏は、そのことを坂本会長に手紙(昭和五十四年八月十四日付)で質問した坂本会長は石川氏の手紙をコビーして宮崎康平に転送したので、宮崎氏から直接返答が石川氏宛に寄せられたものである。

 書簡は長文であるが、主眼は「島原の子守唄の著作権を防衛することにあり、その為の強弁である。

 まず「縁故節」と「島原の子守唄」の前半(ションガイナまで)のメロディ-がほとんど同じであることを認め、その理由として戦時中に「ショウカイナ」までの部分を宮崎氏が作詞・作曲し、それが九州で流行したこと、大村の第二第二航空隊の仕事をしていた山梨県人の石工(宮崎氏の会社の使用人)が、戦後その曲を持ち帰り「縁故節」の歌詞で歌ったのが「縁故節」であるとし、「縁故節」には戦前歌詞はあったが曲はなかったとしている。
  「縁故節」に対する認識不足も甚だしいといわれなければならないが、それ程までに強弁をしなければならない理由は、「島原の子守唄」の前半と「縁故節」とのメロディーの酷似が、偶然の一致とは到底考えられず、もし「縁故節の曲が以前から存在したとすれば、「島原の子守唄」のオリジナリティーが疑われるからである。
 事実は宮崎氏の言い分とはまったく逆で、戦時中から戦後にかけて「縁故節」のメロディ-(歌詞は替え歌)が九州各地で歌われており、本籍不明のこのメロディ-に目をつけた宮崎氏が若干の手直しを杣えて出来たのが「島原の子守唄である。

宮崎氏は

 囃詞「しょうかいな」は
   「なるほど」
   「もっとも」
 という意味の
   「そうかいな」
 を、幼児が
   「しょうかいな」

 というのをとったと説明し、宮崎氏の作った唄が流行し始めた頃意味のわからない人達が「iションガイナ」と歌ったものだといっている。そして、古い記録に残っている「縁故節」の末尾には「ションガイナ」はついていなかったのではないか、といっている。これも認識不足で、「縁故節」の「ションガイナ」は元唄の「エグェグ節」の囃詞をそのままうけついだものである。
 古い記録とは何を指すのか判らないが、昭和十一年刊、椎橋好の『甲斐民謡採集』には、「ションガイナ」がついている。
 「縁故節」の「ションガイナ」の意味は、宮崎氏の「ションガイナ」とは違ってもっと複雑だが、はじめ意味の判らない人連が「シヨンガイナ」と歌ったというのは、それこそ「縁故節」であった証左ではないか。
 このほか、終戦前後から昭和二十五、六年頃にかけて、筑前大島とその対岸七浦一帯で、「縁故節」のメロディーが歌われたことは、北九州市の高校教諭吉田信敬氏も先に報告された。(昭和五十六年八月十六日付毎日新聞紙上)この件については昭杣五十七年七月、筆者は植松和一氏に同行して現地に赴き確認のため調査を行った結果、大島村、津屋崎町、飯塚市等で多くの証言を得た。
 また、ルポライターますやま栄一氏の調査によれば、宮崎氏の主張する「島原の子守唄」の本唄なるものがどこにも存在せず、逆に「縁故節」との関連が濃厚になったと報告されている。(『中央線』第二十四号)「島原の子守唄」の、曲としての構成をみると、第一句「おどみゃ島原の」から「シュンガイナ」までのメロディーを中心とした前半部と、「はよ寝ろ泣かんでオロロンバイ」から最後までの語りの部分との二つから成り立っている。これは「島原の子守唄」より数年前に流行した「五木の木の子守唄」の構成を逆にしたものである。「五木の子守唄は、オロロンバイ、コロロンバイ」という前置きのあやし詞を反復したり、あるいは「オロロンコロロン婆の孫、婆は居られん爺の孫云々」の語りの部分の後にメロディーが続く。

  「島原の子守唄」は、はじめに「縁故節」のメロディーをそのまま利用し、後半に語りをおいて、「オロロンバイ」(天草の福連木地方や「五木の子守唄」のあやし詞を利用した。もちろん、唄はメロディーが主体であるべきであって、その意味から「島原の子守唄」は「縁故節」を元唄として、島原地方の方言で粉飾したものである。
 この様な主張に対して、民謡は所かまわず流れ歩いて、どこでどの様に利用されようと、とやかく云うべきではないという意見がある。そのこと自体はそれで正しい。民謡は本来浮気者で所かまわずとび歩き、野合も敢えて辞さない。 その様な例証は枚挙にいとまがない。しかし、それだからこそ、民謡が民謡であるためには郷土性をもち、地域に愛されなければならない。
「島原の子守唄」は、はじめ民謡としての戸籍を主張した様である。方言をふんだんに使って地域性を強調しながら、しかも、地元の観光協会や旅館組合からボィコットされた模様が、宮崎氏白自身によって述懐されている。(熊本日日新聞社編『新日本風上記(九州編二)』昭和四十八年昭和書院刊) まして、他国の民謡のメロディーをそのまま借用しながら、そのことを糊塗して著作権をとるに至っては作家としてのモラルに拘わる問題である。
 次に、「縁故節」の日野原(明治七年日野春と改称、現長坂町富岡)開拓者招来説がある。これは郷上関係の出版物に多くみられるもので、管見によれば、昭和四十四年刊池田光一郎者『地蔵ケ嶽』から、昭和五十八年刊古文書研究会編『各駅停車』にいたるまで、その数は七件をかぞえる。
 その説によれば、明治六年藤村県令(当時は権令)の下で、権参事富岡敬明が計画した日野原開拓の際、開墾のための労働力として、富岡敬明の郷里佐賀の士族の子弟五十人を投入したので、彼らによって島原地方の子守唄がもち込まれ、これが「縁故節」のもととなったとするものである。
この説は一見もっともらしくみえるがヽ事実はまったく根拠のないものである。 その理由は、第一に、日野原開拓に当って佐賀の士族の子弟を、労働力として投入した事実はなく、佐賀士族入植の事実もない。そのことは、県立図書館編『山梨県史』第三巻の明治六年、明治七年の項、ならびに、昭和四十七年二月県農務部耕地課編『山梨県の上地改良史』日野春開拓の項に明らかである。
 それによれば、開拓は付近の農民の力によったものであり、特に士族の入植ついては、『山梨県史』明治七年政治上開拓の部に、明治七年六月二十七日付け内務卿大久保利通宛、権令藤村紫朗代理山梨県参事富岡敬明の稟議書の末尾に 日野原に家政奉還の士族の移住をすすめたが、希望者皆無であったことが報告され それに対して、同年十一月十八日付け内務卿伊藤博文名をもって、士族の入植者のないことを認めた上で、開拓地を官有地とし、漸次民間へ払い下げるよう指令が出されている。
 県はこれに先だって同年七月二十九日付け、「日野原新墾地移住規則」を布達した。その結果、移住希望者四十余名、養蚕伝習生二十一名が連なったたが、いずれも近村の農家の出身者であった。
 また、富岡の開拓神社境内にある日野原碑の裏面に刻まれた氏名も、すべて近村の人々の氏名である。
 理由の第二は、佐賀県士族が招来したという「縁故節」の元唄と考えられるような子守唄は、島原地方には存在しない。このことは前掲のルポライターますやま栄一氏の調査によっても明らかである。

以上、「縁故節」の元唄を日野春の開拓者が伝えたという説は、まったく事実無根であることが理解いただけたと思うが、このような説が、何故山梨県人によって唱えられたのであろうか いうところの「文化に対するいわれなきコンプレックス」によるものであろうか。郷土尺民謡を愛さない県民性によるものであろうか。

  この項「縁故節」ついて資料は収集中で、今後公開していきます。






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最終更新日  2021年04月13日 12時33分43秒
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