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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月24日
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甲信散策(中央線漫歩)北原白秋と韮崎駅と私 


 


『中央線』中央線社 1971 第7号


 


  池田浩一郎氏著


 


韮崎の白きペンキの駅標に


    薄目のしみて光るさみしさ


          白秋(北原)


 


この歌は詩人、北原白秋が明治四十二年十一月二十日、中央線韮崎駅ホームに降り立った時に歌ったものだが、六十年後の昭和四十四年十一月一日、韮崎駅新築を祝して地元白鳳山岳会 (会長山寺仁太郎氏)が野呂川の白鳳石を台にして高さ二メートルの山崎石に彫して建碑した。歌の書体は白秋の奥さんである北原菊子未亡人(八四才)をはじめ、遺族や門人らの希望もあって、活字を拡大してつくり、白秋先生のサインのみを本人の書いたものにした、後世に残るものとして全国でもあまり例のない石ふみであるという。


この歌碑建設については山寺白凰会長はじめ会員の諸君、村瀬韮崎駅長や鉄道関係者、小林、内藤岡県議、構内韮崎市長、堀内商工会頭、それに白秋の門弟佐野四郎氏(富沢町)などが献身的活躍によって完成したのだが、これについて少々手前みそになるが、こんな私との囚果関係があった。


 戦前のことであった、東京の三原で書道塾を開いている実弟の市岡弘(書壇院審査員)がこんな計画を立てた、郷土山梨を歌った有名詩人の歌を弟が書道で書き、私がこれにマッチした風景写真をつくって、東京銀座の画廊あたりで書道と写真の兄弟二大展を開こうというのである。そして県下の景勝地を歌った、北原白秋、若山牧水、与謝野鉄幹、長塚節、伊藤左千夫等のもの三十余首を調べてかき送って来た。その中に韮崎を詠んだ歌が、前記白秋の韮崎駅のものと、長塚節が詠んだ


       ○


  はしり穂の白き秋田を行きすぎて


        釜無川は見るに遥かなり


       ○


と、窪田空穂の


  にらさきの土手の桔梗を折る人の


        抱えあますもむらさきの花


       ○


などが特に印象に残っていた。私はこのアイデアに賛成して先ず、白秋の歌から撮影にかかった。韮崎駅の白いペンキの駅標を入れて煙をはきながら土手を邁進してゆく貨物列車を構図して写真をまとめ上げた。そして次に若山牧水の


       ○


  甲斐の国小淵沢あたりの高はらの


       秋すえつかたの雲のよろしさ


 


など八ケ岳山朧にカメラの旅をつづけたが、折柄大東亜戦争が苛烈となり、弟は海軍に応招されるし、私は商売の菓子屋を廃業して軍需工場をやるなどで、道楽の写真をつくっている訳にはいかなくなった。


そんな訳でこの計画もオジャン………。


 それから終戦後のことである。韮崎が市政をしく二年前のことだが、当時韮崎駅に清水さんという駅長がいた時である。駅開業四十五周年を祝して記念式が行なわれた。その時図らずも韮崎町議会の初代商工観光委員長だったので、駅長といろいろ祝賀の催しについて協議した。その時この白秋の歌碑建設と韮崎駅開業以来の記録写貴展を計画した。韮崎駅にはいろいろの歴史があった。


明治四十五年三月二十八日、大正天皇が演習統監のため下車、そして舟山や高森丘(竜岡町)に御野立になった。


大正十年十月には貨物列車が暴走スイッチバックの車止めを突破して、下田圃に一列車十余両がことごとく墜落した事故や、昭和二十一年十月十五日には、今の天皇が県下巡幸のため韮崎駅に下車するなど重大ニュース加わった。これらの写真はうまく集まったが、明治三十六年十二月十五日の駅開業当時の写真がない、そこでその当時の模様を知っている老人たちに集ってもらい、その日は初雪が降ったあとの好天気で駅前広場には芸者の手踊り舞台をつくり、提灯を沢山吊るして祝った。珍しい汽車ポッポの登場に大いに振るったことが判った。そこで中井敬象画伯(韮崎市旭町)に依頼してその姿を日本画で再現してもらい駅待合室で展覧会を開いた。


 ところがどっこい、白秋の歌碑の方は折角弟の市岡に歌の下書きを書いてもらったのに、費用が足りないというのでこれまた「オジャン」になってしまった。


 星移り、年替り、昨年の夏のことである。中央線複線化に伴う韮崎駅改築工事のため旧駅待合所(今は取り壊して無い)に、臨時夏山案内相談所がつくられ、毎朝四時から白鳳会員が交替で出勤し午前八時からはかく申す私が案内所長?という格式 (所長といっても私ただ一人)で、ここに四十日間勤務したが、その時現韮崎訳長の村瀬功さんと十八年前の白秋碑建設失敗談をしたことがきっかけとなり、駅長の奔走により市役所観光課、そして白鳳会と堂々めぐりして、今回白鳳会が私の念願とした「白秋歌碑建立」を実現してくれたのであった。ところがまたまた白秋?韮崎駅?私と目に見えない因縁の糸?が続くのである。


 


「白秋歌碑建設」のことが、白鳳会で決定した頃、私の「地蔵ガ岳」出版祝賀会が韮崎市民会館で開かれた。この時前出の詩人佐野四郎氏がわざわざ富沢町から出席してくれた。佐野氏は白秋の門人で宮柊二氏らと共に「コスモス」短歌会を起こし「コスモス」という歌の月刊雑誌を発行しているのだが、四年ほど前、韮崎駅に白秋の作品探訪にやって来た。その時拙宅に来訪されはじめて逢ったのだが、前記の白秋歌碑建設失敗談や白秋の歌にマッチして作画した私の写真を、この「コスモス」誌の口絵に掲載してくれた。お蔭で戦争前から日の目を見なかったこの古写真がパット明るく公開されたのであった。


 そんなきっかけから佐野氏と文通するようになった。そこで早速、韮崎駅に白秋歌碑健設についで、白秋家の遺族や門人らの方々に協力をお願いした次第でした。


佐野氏の再度の上京により遺族の方々との結びつきも出来、白秋先生自筆のサインを頂くなど目出たく建碑することが出来た。そして除幕は佐野氏の手によって行われ、この日のために菊子未亡人がわざわざ白秋先生の古手帳から抜粋された[白秋小品](明治四十二年十一月二十日、韮崎駅で作詩したもの)を朗読して居並ぶ参列者に感銘を与えたと云いたいのだが、折あしく、駅構内に列車が入って来たのでその騒音で充分聞きとれなかった。そこでその全文をここに再現?して見ることにする。


 


〔折々の手記〕    


 


午後一時十分汽車は韮崎の小駅に着く。ひるすぎ方、高原の空気は湖上の朝のように冷たい。背の低い枯れ枯れになったコスモスの茎に、淡紅の花がまだそこここに残っている。上りのプラットフォームの砂地に下りたった一人の男を思い白いペンキの駅標のそばを、黒いビロード色した山高に、黒いインパネス、ふかふかと毛の襟巻をまいて寒さげに歩いてゆく。


 背景には下方の乾いた畑の土の色と、薄黄な稲村と赤ちゃけた崖と、白壁のかがやきとそれより漸次高まってゆく裾野から八ケ岳の絶頂に至る。初冬の日光と冷やかなる青き空と…。


 几てがしみじみとし情調だ。絵に描いたら素敵に気の利いたものになると思う。俺は詩でやる。


 (NRZAKi。 20×1.09)=原文のまま=


 


この手記によってはじめて白秋が韮崎駅におり立った当時のことが推測出来る。文中に「赤石ゃけ化た」とあるのは駅ホームから北方によく見える穂板現權沢や鷹の巣岩の断崖のことで「裾野から八ケ岳の絶頂に」とあるのは茅岳のことであろう。中央線を旅する人たちがよく間違える。今でも山登りの仲間たちは茅岳のことを「偽八」(ニセヤツ)などと呼んでいるほどである。


そして、最後に「俺れは詩でやる」と結んでいるのは同行された石井拍亭画伯らに対抗意識を燃やしたものと、解釈できるし、それが故にこの「にらさきの白きペンキ……」の傑作をものされたのであった。とも云えましょう。


 


 当時白秋先生は二十五才の若さ溢れる情熱家だった。そして体筋の通った長おもての顔、色白な背の高いハイカラ紳士だった、というから六十年前の田舎の小駅だった韮崎駅に英国紳士の異人サンの出現? を思はしめたであろう。「おりたった一人の男を思え……」。晩秋の十一月二十日薄日に寂しいその当時のことが目に浮んで来るようで、まことに楽しい。この白秋未亡人の筆になる手記は佐野氏から記念に、私がもらい受けて今は山寺自派会長のもとに保管してある。


 


 さて、韮崎駅竣工と共に白秋歌碑の新名所も出来た。その反対に古くからあった名物?のスイッチバックは既に長い土手は取り除かれ、本年は複線工事が完了した。考えて見れば永い懸案であった。これあるが故に韮崎は市になっても急行は止らないし地元市民は勿論南アの登山者も観光客も不便を受けていた。おまけに何か事を仕損してやり直すことを「韮崎の駅のようだ」とさえ云われ、地方の悪い代名詞になっていた。


この評判の悪い代名詞のスイッチバックを上手に唄い上げたのが、韮崎が市になった当時流行した「韮崎音頭」である。この唄の作者が何と白秋先生の門人であった上に、またまた私との因果関係があるのである。縁はいなもの味なもの…………。


       ○


  松の若宮 願いをかけて


  参りましょうよ 穴観音へ


  丘の頂き にらさきの


  富士へならんだ 股のぞき


       ○


  来れば戻れぬ 戻れば来たい


  恋し韮崎 スイッチバック


  送り迎への いとしあの娘が


  右に左に 二度見える


 


 これは、その「韮崎音頭」の一節である。戦後全国的にまき起った○○音頭、○○小唄という平和的ムードの風潮におされて、韮崎町がはじめて「韮崎音頭」と「韮崎小唄」をつくった。そして本県出身の葉山和男と、榎本美佐江の流行歌手によってレコードの裏と表に吹き込まれた、まだあまり昔のことでないからご存じの方もあろうが、老いも若きもこのリズムに乗って


「恋し昔時スイッチバック……」と唄ったものでした、全く奇抜の着想である。韮崎の悪い代名詞を逆にして、しかも側やかに観光の唄に結びつけたあたり近頃の傑作?であると思った。


 この「韮崎音頭」の作者は誰あろう、のちに「武田節」をつくって、全国的に有名になった米山愛紫氏であった。そして、この唄をつくるため韮崎にやって来た米山氏を、町内くまなく名所旧蹟を引で案内して廻ったのは、この私であった。雨がしとしととそぼ降る秋のある日でした。あとで判ったのだがこの米山愛紫氏は何と白秋先生の愛弟子であったのだ。愛紫とは白秋先生からつけてもらった名前だというからこれも何かの因縁である。


 米山氏は白秋歌碑除幕式の報を新聞で知り、甲府から馳せ参じたのである。そして白秋先生の歌碑と今スイッチバックを取り除いている作業をまのあたりに見て感慨ひとしおであったという。


除幕式も無事に済んで、恵比寿屋で夕食会を開いた。横内韮崎市長、広瀬観光課長、鉄道関係者、白鳳会幹郎等が今日の主賓である佐野・米山両氏を囲んで、白秋先生の物語に花が朕いた


「雨が降るふる城ケ島の磯に……」で有名な白秋先生のことである、雨が降らねばよいがと朝から嫌悪な空を気にしていたのだが、という夜になって本降りになった。雨の中を山寺白鳳会長と私とで佐野・米山両氏をお宅まで車で送って行った。米山氏と私とは去る目の「韮崎音頭」の時のことを思い出し「やっぱり雨はつきものだったネエ……」とニンマリ笑い合ったのでした。


 


 まだ一つ、記さねばならぬことがある。こんど複線工事が完了すれば取り壊しの運命にあるスイッチバックの信号所東側に一本のサクラの本がある。この桜は、かつて明治・大正・昭和7年のはじめ頃まで韮崎名物と歌われてきた。上宿の自髭神社境内にあった「自髭ザクラ」(今は枯死してない)の落とし子である。花弁の大きさが五センチもある山桜のひと重で、壮麗なること日本一と呼称された名木で、学名を「プリンスマクランタ」という珍種であった。


 この白髭ザクラが盛んな大正十三年頃、私の父、一布が、このサクラの若芽を大根に差して小金井農場に送り二百本の苗本に仕上げて、舟山公園やその当時あった池田岬に植えつけ、韮崎の春をこの遅ザクラで飾り、花の名所としたが、残念のことに戦争で切り払われて、燃料にされ、残りは昭和三十四年の大水害で流れ去ってしまった。今あるのは、この信号所の桜と舟山墓地(高柳本家)と大草町南宮神壮境内にあるものでたった二本となった。


 たまたま駅構内にこれを植えた人が判った。韮崎駅に三十三年も勤務した天神町の中込退三氏がそれである、このゆかりの名木がいまレール引込み工事のため取り払われようとしている。危機である。


私は早速、村瀬韮崎駅長に面接してこの事情を話してサクラの助命を嘆願?・した。韮崎駅に永年勤務している向山助役もこれははじめて聞いたと「アット驚く為五郎」であった。(テレビの見すぎかな、つい流行語が出てしまった)結局、白秋歌碑の植込み付近に恰好の場所があるので、そこへ移植して大切に保存することになっていたが、その後(今年の三月)上宿水神町区民らの申請により駅長の計らいで白髭神社境内に寄付移植された。昭和十年頃まで爛漫と咲き誇った親木が樹齢満ちて枯死したあとへ「元本にまさる親木なし」と高さ四メートルのこの二代目「白髭ザクラ」が三十五年渡りに再現した訳である。きっと春来りなば見事に咲き栄えることであろう。


 そこで韮崎駅に 


白秋――白きペンキ――白鳳会――白鳳石――白髭ザクラ


と因縁の白の宇ばかり続いて落語の「代々ばなし」のようになってしまった。その後、またその上に「しろう」が一枚加わった(ちょいと云い廻しが失礼だが)建碑記念にと左の短冊を頂いたのである。


       ○


  千載を自派の谷に 美がかれし


    石のおも映ゆ 歌碑をめぐりてしろう







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最終更新日  2021年04月13日 05時24分14秒
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