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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年06月25日
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甲斐の山 甘利山周辺 椹池(さわらいけ)    


 


『中央線』中央線社 1971 第7号 山寺仁太郎氏著


 


甘利山には二つの目がある。一つは大笹池であり一つは椹(さわら)池である。大笹池は何時も秋の山の「リンドウ」花の様に、清純に澄んでいて、乙女の瞳を思わせるが、椹池の方は眼疾に悩む老人の目の様に、どろりと褐色に濁っている。しかし、甘利山を有名にしたのは何といっても椹池であり、この池が水を湛えていなかったならば、甘利山は今日の様な姿の名所には決してならなかったであろう。


今は自動車道が頂上広河原まで達し、更に近い将来には、ゴア沢の谷を経て、青木の湯まで行くことが出来る様になったが、飽くまでも歩くことが山登りであり、物見遊山であった頃には、甘利川登山の第一の目標は、この椹池であった。


その頃、それは昭和五、六年の頃であるが、韮崎の町から、山口の水神の森まで健脚の者で一時間はかかった。水神の森から研場(とぎば)まで甘利沢を遡って、こらの茶屋で一服して、清列な水で口をすすいで、足ごしらえを確かめると、登山者は一寸、敬虔(けいけん)は気持になって、粟平までの九十九折の急坂を登り始めたものである。一時間半位はかかって、漸く栗平の涼しい平地でほっと一息つく。


五月六月の頃は、今も残っているエゴノキの大木に白い花がいっぱいついていた。小学校の教師にこの花は桜の変り種だと教えて貰ったことがあるので、長い間はそう信じていだが、これはやはりエゴノキであった。


更に俗説を攀じ登って大富ノ崖(おおどみのがれ)の縁を通って、富士見平に出た。富士見平からは、二、三ケ所レンゲツツジの咲いている小さな湿原を通って、椹池に着いた。この屋根を昔は、イヌボーキと言ったという。その意味は今もって判らない。


普通の登山者は、椹池までの登高にへとへとになってしまい、幽邃(ゆうすい)の片辺に腰を下ろすと一汗も二汗もぬぐったものである。


 椹池の取っ付きには、その頃、紅雲亭という藁屋根の茶屋があって、五銭の茶代をおくと、ここの主人はとうとうと椹池にまつわる伝説を語った。その名調子を四十年も経った今でも、私はよく覚えている程だ。伏見という爺さんだった。


 茶屋の前の岸辺の草原に一つの石祠があった。甘利左衛門尉の息子で、池の大蛇に呑み込まれた旭丸を祀ったものだと聞いた。其の後、紅雲亭は戦時中に取り払はれてしまって、伏見老人が記念に池の中に生えていた二本椹を植えたのが今に残っている。椹池というので、この附近には椹の木が定めし多かろうと想像していたが、椹の木はこの二本しかない。あとは殆んど檜(ひのき)である。椹と檜を区別することは厄介である。葉裏の鱗がY宇型になっているが檜で、X宇型になっているのが椹であると教わったのはこの場所である。


 旭丸の石祠は、その後長い間行方不明になっていた。数年前、私はこの懐しい石祠の屋根だけを辛うじて、キャンプ場のごみ棄陽の底から発見して、記念の椹の木の根本へ安置した。屋根しかないから変な格好だが、これも何時また行方不明になるか、心細い話である。この石祠の屋根は見たところそんなに古いものではない。だから甘利氏のものと断定はできないのである。


 椹池は、古図にはサハラ池又はサワラ池とあり、甘利左衛門尉の許状にもさはら池と仮名で書かれている。甲斐国志には佐原池とあててある。甲斐国志の記事を、柳田国男は大正二年、「山島民譚集」の中に次の様に書き下して記載した。


  甲州北巨摩郡旭村上条北割組ノ甘利山ノ山中ニ、佐原池ト呼ブ池アリ。


甘利左衛門尉ノ一子此油ニ漁シテ池ノ主ノ為ニ命ヲ失ヒ、其亡骸ヲスラ見出スコト能ハズ。


甘利氏ハ郷内十村ノ百姓ヲ駆リ集メ、池ノ中へ大木ヲ投ゲ込マセ且ツ不潔ナル物ヲ沃ガセタルニ、


池主ハ赤牛ノ姿ニ化シテ水中ヨリ走り出デ、更ニ山奥ナル大笹池へ遁入りタリトイフ。


 


「さわら池」が「佐原池」となり「椹池」となったのは何時のことか私には分からなないが、毒蛇退治のために伐り込まれた木が椹であったからだと、今は言われている。


 紅雲亭は椹池の南岸に建てられていたが、戦後、昭和二十四年十月十日に、北岸に白鳳会の手で建てられだのが白鳳荘であった。その白鳳荘も二十年の歳月に次第に荒廃して、昭和四十三年に鉄骨ブロックでハイカラに改築されたのか現在の白鳳である。白鳳荘主人藤森徳雄君は、改築一周年記念式に、記念の手拭を新調して関係者に配布した。


 その図柄は、甚だ珍妙なもので、恐らくその珍妙さの故に、後世まで大切に保存される程のものである。手拭の真中には大きな池があって、その中から真紅の牛が、今や甘利山頂を目がけて天駆けらんとする勢で、立ち上っている。この赤牛の形相は凄まじく、恐げに見えるが、何となくユーモラスで間の抜けたところがあって、白鳳荘主人は、これは私の顔に似せて描いてものですと秘かに語ったことがある。異様なのは、この赤牛の尻尾に一匹の鮒が振り落されまいと必死にしがみついている点てある。他の面には、数匹のこれも鮒とおぼしき魚が、勇敢な仲間を眺めている。近景には型の如く、レンゲツツジとスズランが配されていて、遠く甘利山頂とその向うに、雨アルプスの峰々が縹渺(ひょうびょう)としている。甘利山住む一鈴木伸夫画伯の原画だという。


 この手拭を貰った者は、一様にこの図柄を眺めて、首をかしげるに相違ない。それで、この手拭のいわれをいちいち説明するのは煩はしいので、袋の裏側にツツジ色の紙を貼り付けて、簡単に椹池の伝説が印刷されている。


 ------甘利山の伝説 椹池赤牛の由来------


 韮崎市の下条に住んでいた一人の老婆は突然、額に角加生えてきたのを恥じて、甘利山に登り椹池に身を投げて死にました。老婆の化身は大蛇となって池に住みつきました。


 ある時、領主甘利左衛門府の二人の息子が池で鮒を釣っているのを大蛇が呑み込んでしまいました。余利氏は大いに怒って領民に命じて汚物を池に投じ、又池の周りの椹の木を切り込んだので、大蛇は苦んで赤牛となって跳び出しました。それでこの池を赤池といいます。


 その特、一匹の鮒が赤牛の尻尾に喰い付いていましたが、その鮒は、甘利山の頂上経塚の下でポトリと落としました。そこを今鮒窪といいます。赤牛は頂上を越えて大笹池賞他に逃げ込みましだが、更に追い出され中巨摩郡野牛島(やごしま)みついたといわれています


 甘利氏は領民の功をめでて、甘利山一帯を賜ったといいます。これが、今の甘利山財産区の発祥といわれます。


とあって、甘利山椹池畔白鳳荘主人敬白と事々しく勿体がつけてある。


 


この文章は、何れ白鳳会員の誰かが書いたものに相違ないが、昔紅雲亭の主人が名調子でしゃべった伝説の本筋を外していないもので、当今語られている甘利山伝説を最も簡単に要領よく紹介している。


 それにしても、椹池の伝説は年を経るごとに複雑になって来ている様だ。天文十四乙己の年に出されたという、甘利氏の許状には、


椹池に毒蛇が住んで人間に害をしたから、これを退治したと書いてある。


甲斐国志には、その赤牛になって逃げ出して大笹池に遁れたと書いてある。


白鳳荘の手拭には、毒蛇の前身は世を儚んで入水した老婆ということになっていて、附録に鮒の話が加えられている。赤牛の終焉の場所は能蔵池になっている。


 甘利山財産区という特殊な財産体を後世に由緒づけるには、毒龍退治だけで十分であったと思うのだが、赤牛や鮒や椹の木が登場する様になったのは、それだけ甘利山が色々と不可思議な要素を山中に蔵い込んでいる証拠であって、その不可思議さが、実はこの山の大きな魅力になっている様だ。


 私が始めて甘利山に登ったのは小学校四年生の時で、爾来一体何回はこの山に登ったことであろう。百回ではきれぬ。二百回以上かも知れぬ、飽きもせずに、私をこの山に登らせた原因は、この山中に包蔵されている不可思議さであったことに思い当る。それは山の持つ毒気の如きものである。


 さて、伝説はとにかくとして、この他の南西岸の一部には、高層湿原と称してよい地形がかなりよく残っている。明治の初めの頃の絵図に依ると全部が、高層湿原の様相を呈していたらしい。そこは水ゴケで埋められていて、それが浮島の様になっている。日光尾瀬ケ原や、霧ケ蜂の八島池に特有な地形である。尾瀬ケ原が天下の名勝地として未だ売り出さなかった頃、私は其処を訪ねたことがあった。友人はその特異な景観に、思はず声を上げて驚いた。私かこの風景にあまりびっくりしなかったのは、椹池で先刻馴み深い景観であったからに外ならない。浮島の上には、尾瀬ケ原と同じく、モウセンゴケが昔は一面に生えていた。今は探しでも一株もない。登山者が採り尽してしまったのか、自然条件が変ったのか、椹池は貴重な名物を一つ失ってしまった。名物といえば、この湿原には美しいサワギキョウや、風雅なサギスゲも多かったが、今日では数える程しかなくなってしまった。何れにしても、池を浚渫(しゅんせつ)してボートなど浮べた観光開発のになったのであろう。


 ミズゴケの上に生えやすいのが椎の木で、この木は深く根が張れないものだから、大きくなると次々と倒れて行くのだという話は、山麓出身の植物学者秋山樹好先生に教えて戴いた。先生によれば、椹の木を伐り込まれたから、椹池になったのではなく、好んで池中に椹の木が生えているから椹池と名づけられたのだという。


 


作家山本周五郎も樹好先生と同じ解釈なのであううか、「山彦乙女」には次の如く書いた。


 


桧と椹の林が揺れだした。「ざあアと」気味の悪い音をたてて、梢と梢が触れあい、まるで烈風にでも煽られるように、幹と幹を打ちあわせ、そうして端のほうから順に、ゆらゆらと揺れ傾きながら、池の中へと倒れ始めた。みんな息をのみ、眼をみはって立ち()。それは恐ろしい、白昼夢のような、出来ごとであった。


 僅かに東南の微風があるばかりで、初め山は眠っているように静かだった。空は青く澄みあがって、ひる近い日参が、眩しいほど明るく照っていた。


 この穏やかな景色のなかで、林の樹々が、つぎつぎに、大きくゆらめき、身ぶるいをしながら、どうどうと倒れてゆく。水を打つ音、技の折れる響き、高くふきあがる飛沫。そして、倒れたものから順に、ずるずると、他の中へひき込まれてゆくのである。根がはねあがり、土くれが飛んだ。」


 


山本周五郎の父親は、甘利山山麓大草町に住みついていたから、甘利山には詳しかった筈で、周五郎は甘利山の知識をその父親から聞いて、大きな関心を持っていたのに違いない。「山彦乙女」は甘利山を舞台にした大ロマンである。山本周五郎という大作家も亦、甘利山の毒気にあてられた一人だと思うと、私は大いに愉快になってくるのである。


 何れにしても椹池は、不可思議な池である。昔風に言うならば、毒気に満ちた池と表現する外はあるまい。


 六月の始め、初夏には珍しく寒い夜を、仏は白鳳荘の薄い毛布の中で寝た。仲間の高いびきにどうしても寝つかれず、起き上って私は寒さに震えながら、池畔に立って、南の空を眺めた。昔紅雲亭のあった附近には、夜目にも白々と(もう)()立ち込めていて、その上の空に、何と(さそり)高々と起ち上っているのを慄然(りつぜん)として立ちすくんだ。燦然(さんぜん)たる星の連りはあたかも大蛇の姿になって、昇天するかの如くに見えたのであった。


 やはり、椹池は不気味な池だと、その時私はしみじみと思った。







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最終更新日  2021年04月13日 05時23分40秒
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